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紬「四畳半に住むのが夢だったの~」#前半 【クロス】


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紬「四畳半に住むのが夢だったの~」#前半
紬「四畳半に住むのが夢だったの~」#後半

紬「四畳半に住むのが夢だったの~」(IEのみ縦読み)#前半
紬「四畳半に住むのが夢だったの~」(IEのみ縦読み)#後半




1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:18:03.87 ID:JcM4nRRK0

大学三回生の春までの二年間、私は一つとして実益のあることをしてきただろうか。
否。

異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化、
その他全てにおいて負の坂道を転がり落ちていったのはなにゆえであるか。
責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

かつては邪念のかけらもない純粋無垢の権化ともてはやされた私だったが、
今では邪念を通り越し怨念の塊と化してしまった。
まだ若いのだからと言う人もあろう。人はいくらでも変わることができると。

そんな馬鹿なことがあるものか。

やがてこの世に生を受けて四半世紀になんなんとする立派な青年が
いまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねた所で何となろう。
すでにこちこちになって屹立している人格を
無理にねじ曲げようとすればぽっきり折れてしまうのが関の山だ。

過去を変えることは出来ぬ。今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。
その事実に目をつぶってはならぬ。

でも、いささか、見るに堪えない。

この物語の主な登場人物は私である。
第二の主役として、三次元に存在するとは思えない美しき令嬢、琴吹紬がいる。
そして多次元宇宙から舞い降りた天使のような彼女と、
誇り高き美男子である私に挟まれて、矮小な魂を持った脇役たる小津がいる。

博識であり頭脳明晰な読者諸君にあえて断わっておくが、
この物語は小説「四畳半神話体系」を土台とし、いうなればそのまんまである。





10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:20:30.42 ID:JcM4nRRK0

当時、私はぴかぴかの大学一回生であった。
新入生が大学構内を歩いていればとかくビラを押しつけられるもので、
私は個人の処理能力をはるかに凌駕するビラを抱えて途方に暮れていた。
その内容は様々であったが、私はあるひとつの奇想天外なビラに心奪われた。

バンドサークル『ぴゅあぴゅあ』と書いてあるその紙には、
私が想像する一般的なバンドサークルとは一線を画した案内が描かれていた。
一目見るだけではそれがバンド活動をするサークルとは思えない可愛らしい字体に、
丸や星など淡い色合いをした柔らかな模様が散りばめられ
そのビラからは甘く香ばしい香りが立ち込めている。

その目もくらむような和気藹藹としたビラから私はおもむろに推測した。
これほど男っ気のないバンドサークルに私の望む健全な異性との交流がないわけがない。

高校時代は運動部にも所属せず、文化系の活動もしていなかった。
とにかくできるだけ活動せずに息をひそめ、同じく非活動的な男たちとくすぶっているばかりだった。
思えば、私は物心ついたときから音楽というものに
さして興味を示したことがなく、義務教育課程における音楽の授業も
熱心に取り組んだわけでもない。

もちろんギターなど触れたことすらなかったが、案内には初心者大歓迎と書いてある。
しかも優しい先輩が手とり足とり教えてくれるというのだ。それも淡いピンクのハートが添えられている。

私は「音楽活動も悪くあるまい」と考えた。
プロのミュージシャン養成学校でもないただの大学のバンドサークルなど、
適当に楽器を弾いてわいのわいのと楽しむだけである。
鬱鬱たる高校時代よサラバ、こういう集いに加わって
爽やかにギターをかき鳴らしながら、友達百人作るのも悪くない。
みっちり修業を積んだあかつきには、
天才的な音楽の才能を開花させ、美女たちと言葉のアンサンブルを奏でるのだ。
これは社会に出て生きていくためにも、ぜひとも身につけておかねばならない能力だ。

決して美女と交流したいわけではない。技術を身につけたいのだ。
しかし技術を身に付けた結果、美女もついてくるならば、特にそれを拒むつもりはない。



13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:24:14.91 ID:JcM4nRRK0

講義が終わってから、私は大学の時計台へ足を向けた。
『ぴゅあぴゅあ』の新歓説明会の待ち合わせ場所である。
時計台の周辺は湧きあがる希望に頬を染めた新入生たちと、
それを餌食にしようと手ぐすねひいてるサークルの勧誘員たちで賑わっていた。
幻の至宝と言われる「薔薇色のキャンパスライフ」への入口が、
今ここに無数に開かれているように思われ、私は半ば朦朧としながら歩いていた。

今にして思えば、あの紙切れ一枚で判断するべきではなかった。
どこの馬の骨とも分からぬ新入生が集う入会説明の雰囲気を吟味することなく、
その日の内に入会を決めてしまったのは、
来るべき薔薇色の未来への期待に我を忘れていたとしか言いようがない。

かくして『ぴゅあぴゅあ』に入った私は、早くも理想とのギャップを思い知ることとなる。
私の想像を超えたぬるま湯状態がちゃんちゃらおかしく、とても馴染むことができない。
柔軟な社交性を身につけようにも、そもそも会話の輪に入れない。
会話に加わるための社交性をどこかよそで身につけてくる必要があったと気付いたときには
すでに手遅れであり、私はサークルで居場所を失っていた。

『ぴゅあぴゅあ』は私が思い描いていたサークルとは違い、
意外にも男の比率のほうが高かったことも後悔の念を更に後押しした。
そうして片隅の暗がりに追いやられた私の傍らに、ひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な男が立っていた。
繊細な私だけが見ることができる地獄からの使者かと思った。

それが小津との出会いである。

小津は私と同学年である。
一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、
果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。
即席ものばかり食べているから、月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚だ不気味だ。
夜道で会えば、10人中8人が妖怪と見間違う。残りの2人は妖怪である。
弱者に鞭打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢であり、
怠惰であり、天の邪鬼であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、
他人の不幸をおかずにして飯が3杯食える。
およそ誉めるべきところが一つもない。
もし彼と出会わなければ、きっと私の心はもっと清らかであっただろう。



15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:27:49.34 ID:JcM4nRRK0

小津との出会いから、時は一息に2年後へ飛ぶ。
3回生になった四月の終わりごろ、私は愛すべき四畳半に座り込んで物思いにふけっていた。
私が起居しているのは、下鴨幽水荘という下宿である。
今にも倒壊しそうな木造三階建て、
見るものをやきもきさせるおんぼろぶりはもはや重要文化財の域に達していると言っても過言ではない。

しばらく過去の思い出に浸り、怒涛の後悔の津波に耐え、
現実と正面から向かい合おうとしていた私は、ふと四畳半の部屋を見渡してみた。
埃の積もった本棚と普段めったに向かうことのない学習机との狭間には当四畳半において
行き場を失ったありとあらゆるガラクタが投げ込まれる空間が広がっており、
そこへ送られることは一般に「シベリア流刑」と言われる。

半年前、二回生の冬に小津とともに『ぴゅあぴゅあ』を辞めて以来、
私はほとんどギターを弾くことはなくなった。
『ぴゅあぴゅあ』に入った途端にギターを薦められ、
半ばむりやり初心者用のギターセットなるものを買わされ練習に励んだ私だったが、
一か月もすると自分の才能の無さに早くも絶望した。
コードが抑えられない、リズムが取れない、理論を覚えられない。

ベースなら簡単そうだとパートの変更を申し出るが、
意外にも真面目に練習していたサークルの同士たちはそれを認めてくれなかった。
入学して半年経っても一向に上達せず、がつがつと練習しているのが馬鹿らしく感じてきた。
そんないじましい己の姿は私の美学に反する。
よって私は潔く練習を諦めた。こういった潔さには自信がある。

サークルをやめるまでの一年半、苦楽の道程を共に歩んできた安物のギターだったが、
今や「シベリア流刑」に処せられたガラクタを崩れないように支えるだけの存在となってしまった。
埃をかぶったそれは悲しげで、そこはかとなく哀愁が漂っている。
それだけならまだ良かったのだが、
問題はこの四畳半においてその巨大なボディが圧倒的な存在感を放っていることである。

この数か月というもの、古びたギターに目を向けるたび
四畳半の狭い空間に負のオーラが充満していくようで憂鬱だった。
いっそ捨ててやろうかとも思ったが、変に愛着が湧いてしまい捨てるに捨てられない。

「・・・すまない、ギー太郎・・・」

最近は変な方向へ愛着をまとわせたせいで、とうとう名前までつけてしまった。



17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:32:34.01 ID:JcM4nRRK0

そのうちごろりと横になって窓の外を見てみると、すでに日は大きく傾いていた。
私の休日は不毛に終わろうとしている。
この不毛なる休日を、唯一、有意義なものとする「英会話教室」の時間が迫っていた。
私は出掛ける支度をした。

『ぴゅあぴゅあ』でひどい目に合った私は
サークルと言うものを信用しなくなっていた。当然、時間が有り余る。
前年の秋ごろ、たまたま商店街を通った時に見かけた
「英会話教室」の看板に触発され、一から何かを始めてみる決心をしたのである。

英会話教室では各々が自分の好きな題材をスピーチするが、私の題材はもっぱら小津の悪行であった。
私の交友関係の中核を、小津が占めているからである。
正直なところ、やや気が引けたのだが、やむを得ず言及すると
なぜかクラスメイトから喝采を受け、毎週「小津ニュース」を語ることになった。

英会話のクラスが終わってから、日の暮れた夜の街を歩いた。
すると暗い民家の軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る老婆が居た。占い師である。
妙な凄味が漂っている。

この世に生まれて四半世紀になろうとしているが、
これまで謙虚に他人の意見に耳を傾けたことなど数えるほどしかない。
それゆえに、あえて歩かないでもかまわない茨の道をことさらに選んできた可能性がありはしないか。
もっと早くに自分の判断力に見切りをつけていれば、私の大学生活はもっと違ったものになっていただろう。

そうだ。
まだ遅くはない。可及的速やかに客観的な意見を仰ぎ、あり得べき別の人生へと脱出しよう。
私は老婆の妖気に吸い寄せられるように足を踏み出した。

「学生さん、何をお聞きになりたいのでしょう」
「そうですね、なんと言えばいいのでしょうか」

老婆は私の顔をじっと見つめた。



19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:37:13.99 ID:JcM4nRRK0

「不満…。あなた、自分の才能を生かせてないようにお見受けします」
「ええ、そうなんですよ」

老婆は私の両手を取って、うんうんと頷きながら覗き込んでいる。

「ふむ、あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」

老婆の慧眼に私は早くも脱帽した。

能ある鷹は爪を隠すということわざにあるごとく、
慎ましく誰にも分からないように隠し通したせいで、ここ数年はもはや
自分でも所在が分からなくなっている私の良識と才能を、
逢って五分もたたないうちに見つけ出すとは、やはり只者ではない。

「とにかく好機を逃さないことが肝要でございます。
 好機はいつでもあなたのそばにぶら下がっております」

そう言って老婆は占いを締めくくった。

まったく根本的なことが判明していないが、
老婆は静かに手を差し出し、占いの料金を急かしている。
なんだか一杯食わされたような気がした。

「ありがとうございました」

私は頭を下げ、料金を支払った。立ち上がって振り向くと、背後に女性が立っている。

「迷える子羊さん、ですか?」

琴吹さんは言った。



22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:41:29.47 ID:JcM4nRRK0

琴吹さんは英会話教室で同じクラスである。
私が教室に通ってからおよそ半年以上の付き合いになるが、あくまでクラスメイトとしての付き合いである。
彼女も私と同じ大学に通っているが、私の一つ下の学年であり、文学部で現代文化学を専攻している。

非常に穏やかな性格であり、
性根がラビリンスのように曲がりくねった小津のような人間とは対極に位置する存在である。

英会話教室での彼女のスピーチは主に海外旅行やクラシックのコンサートといった、
上流階級を匂わせるようなものがほとんどであった。
話し方、立ち振る舞い、ファッションなどいたるところが上品であり、
明るいクリーム色の髪の毛をふわふわさせながら歩く姿は
まるで神がこの世に平穏をもたらすべく地上に使わした天使のようである。

また彼女は、その端麗な容姿だけでなく、英会話のスキルもクラスの中で
頭一つ抜きん出ていたため、クラスメイトからも一目置かれるような存在であった。
顔はまだ幼さが残っているが派手な化粧をすることもなく、
知的な雰囲気も漂わせながらも表情は柔らかく笑顔が絶えることがない。
真面目であり、素直な性格である彼女は決して他人を卑下することなく謙虚で、
それでいて堂々たる気品も兼ね備えていた。

所かまわず笑顔を振りまいているかと言うとそうではなく、表情は豊かで、
その特徴的な眉毛は彼女の喜怒哀楽を十分に表現するのに一役買っていた。

かつて彼女が高校時代の部活動を題材にスピーチしたことがあった。
高校の三年間は軽音楽部に所属し、五人でバンドを組んでライブをしたり
部室でまったりとケーキを食べたりして過ごしていたらしい。
彼女のパートはキーボードで、作曲を担当していたという。
どこまでも才色兼備がとどまることを知らない人物である。



25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:46:05.59 ID:JcM4nRRK0

そして彼女は自分の眉毛について、高校の友達にたくあんと間違えられたと言及した。
なるほど、言われてみれば同年代の女の子に比べいくらか太ましいその眉毛はいかにもたくあんであった。
しかし彼女の眉毛は彼女自身の評価を下げることなく、
むしろアイデンティティとして彼女の存在を確立させるものであった。

はっきり言って私は彼女に対して劣等感を感じずにはいられなかった。
非の打ちどころのない彼女を目の前にして、果たして私は自尊心を保っていられるのだろうか。
もし彼女とあわよくば二人きりで会話する機会に恵まれたとして、
自分の中の何かが決壊してしまうのではないだろうか。
不毛な大学生活を漫然と過ごし、過去に築いたものはそびえたつ後悔の柱だけ。
未来を見据えても果てしなく広い人生が山も谷もなくただ横たわっているだけ。
大学三回生になってようやくそのことを思い知った。
そんな私の焦燥の心を深くえぐられるのではないかと、彼女を見るたびに思うのだ。

しかし、私は決して彼女を嫌っているわけではない。
正直に申し上げると、好意を抱いていた。

そんな折、運命か偶然か、はたまた夢か、このような夜道で琴吹さんに会おうとは予想だにしなかった。



30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:50:39.85 ID:JcM4nRRK0

「先輩、何か悩みごとでもあるんですか?」

よりにもよって私が今後の人生いかに生くべきかという大問題について
占ってもらったという矢先に恥ずかしい場面を見られてしまった。

「いや、なにも。ふらっと立ち寄っただけ」

不測の事態に直面した私はさも占い婆の呪いによって金縛りにあった哀れな人形のごとく筋肉を強張らせた。
呼吸は浅くなり、硬直したまま苦し紛れに口から発せられる言葉は抑揚を失っている。

「そうでしたか…。なんだか先輩が思いつめているように見えたので、少し心配に…」

本当に他人に気を使う人である。なんだかこっちが申し訳なくなってきてしまった。
それにしてもこんな夜中だというのに彼女の輝かしさはいったいどういうわけだろうか。
単に髪の毛が明るい色をしているだけではないような気がした。

「あの、琴吹さんはなぜこんな所に?」
「実は私もたまたま通りかかっただけなんです。たまには違う道から帰ろうかなって」

なんという奇遇であろうか。

「あの、もしよかったら途中まで一緒に帰りませんか?
 実はここがどこかよく分からなくて、迷っちゃったんです」

ここまで来ると私は占いの老婆に畏怖の念すら抱いてしまう。
まさかこれが好機だというのだろうか。
だとすれば千載一遇の好機をみすみす見逃すわけにはいくまい。

「ぜひともお供させてください」

考えるより先に言葉が口をついて出てきてしまった。
ここまで来たらもう後に引き下がることは出来ない。



33 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:54:15.00 ID:JcM4nRRK0

大学に入って以来二年、
ひょっとするとあるかもしれない異性との薔薇色の交際に向けて、
私は十分すぎるほど男女の営みについて予習してきたつもりであったが、
そもそも色恋沙汰とは遥か無縁の青春時代を過ごしてきたため
美女との恋の駆け引きは妄想に始まり妄想に終わるのであった。

このとき私は、好機を決して逃すまいと必死だった。
何か話を切り出さなくてはと、当たり障りのない話題を提供しようと試みるも喉元でつっかえてしまう。
後悔することには慣れているはずだった。いまさら何を恐れるというのだろうか。
様々な思案を巡らせながら、気付くと私たちは怪しくネオンがきらめく桃色の街並みを目前にしていた。

「わぁ、きれいな所ですね」

私の悶々を尻目に、彼女が目をらんらんと輝かせながら言った。
いくら英会話のクラスメイトとして半年の付き合いがあるとはいえ、
ここでみだらに猥褻な行為を期待するのは野暮というものである。
それは紳士たる私が許さない。

「ところで、私の家は駅の方面なんですけど…」

私は彼女と一緒に帰れるという意識のあまり、すっかり目的を見失っていた。
駅の方面といったらまるっきり反対側である。

「すまん、間違えた。こっちだ」



36 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 01:57:42.74 ID:JcM4nRRK0

そうこうしているうちに夜も更けてきた。
街はだんだんと夜の顔を見せ始め、路上は酒に呑まれるべく居酒屋を練り歩く輩で賑わってきた。

「あ、この道知ってます。まっすぐに行けば駅の南口に着くんですよね」
「琴吹さんの家は駅のすぐ近くなのか?」
「はい。先輩はどちらにお住まいなんですか?」
「私は大学の近くの下鴨幽水荘という所に下宿している」

言った瞬間しまった、と思った。

「え!じゃあ先輩の家って駅の方向じゃないんですか?てっきり一緒に帰れるものだと…」

私は自分の愚かさを呪いたくなった。今の琴吹さんの心情を察するに、次に彼女はきっとこう言うであろう。
「特に用事があるわけでもないのに一緒に帰るだなんて…先輩の変態!ストーカー!」と。
しかし彼女は私の予想に反し、こう言った。


「ごめんなさい、私の勘違いでわざわざこんな遠くまで送ってもらっちゃって…。
もうすぐ私の家なんですけど、お茶でも飲んでいきませんか?お礼と言っては何ですけど…」


彼女の驚くべき提案を前に、私の脳味噌は半ば麻痺していた。
その誘い入れを断るなど、それこそ紳士の名を汚す愚劣極まりない行為である。



37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:03:24.43 ID:JcM4nRRK0

気がつくと私は広々とした部屋のソファに鎮座ましましていた。

普段と変わらない休日を過ごすはずが、とんでもない事態になってしまった。
中世ヨーロッパの城塞よろしくそびえたつマンションのエレベーターに乗り込んだ時点では、
もはや自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか、
悠久の時の流れの中に置いてけぼりにされたような心細さを感じていた。

3LDKはあるかと思われる巨大な空間にぽつんとたたずむのは存外心が落ち着かないものである。
豪華絢爛な家具や装飾がまぶしく、猥褻文書がひしめく四畳半に
身も心も蝕まれていた私は、華やかな女性の部屋というものに
多少の居心地の悪さを禁じ得ないでいた。

「お茶入りました~」

甘い紅茶の匂いが漂ってきた。



38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:07:40.33 ID:JcM4nRRK0

「最近良い紅茶の葉を買ったんです。
 これといったおもてなしは出来ませんけど、よかったら飲んでみて下さい」

私は軽く会釈をして紅茶をすすった。形容しがたいほど美味い。まさに本物の味である。
今まで飲んできた紅茶とは一体何だったのだろうか。

しかし、もはや私には高価なお茶の葉などどうでもよかった。
女性が一人で暮らす部屋に誘われて二人っきりでお茶を飲んでいるという、
あまりにも典型的な異常事態を迎えて、いかに紳士的な体面を保って切り抜けるかと思案していた。

一方の琴吹さんといえば、異様にむつかしい顔をする私をよそに、ニコニコとお菓子を用意している。
それにしても、やけに高そうなお菓子ばかりが並べられている。

「こんな高級そうなお菓子まで用意してもらって、なんだか申し訳ない」
「いいんです。お客さんが来た時のためにあるものなので、遠慮せず食べちゃってください」

すすめられた折、食べないわけにはいかないので、とりあえず目の前のケーキを口に運ぶことにした。

「今日はありがとうございました。私、ちょっと方向音痴なところがあって…」

人間である以上、琴吹さんにも弱点の一つや二つあるだろう。
しかし方向音痴という欠点は彼女にとって弱点たりえるものではなく、
むしろ人間味を演出するための個性となった。

考えてみれば、私は今まで琴吹さんの表面的な部分だけを見て一方的に完全無欠と決めつけていた。
しかしながら、少なくとも表面の部分で完全無欠であることはことさらに否めない。
私は俄然、彼女の内面をもっと知りたいと思った。

「こんなに大きな部屋に住んでるなんて驚いた。一人暮しなんだろう?」

私は努めて慎重に言葉を選び、あくまでさりげない口調で聞いた。



41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:11:36.57 ID:JcM4nRRK0

「ええ、一応一人暮らしなんですけど…。実際は両親にほとんど世話をしてもらっているようなものです。
 本当はもっと学生らしいアパートに住みたかったんですけど、親がなかなか認めてくれなくて…」

「それだけご両親は琴吹さんのことが心配なんだろう」

「でも、大学生にもなって親から何でもやってもらうのは何だか違う気がします。
 いいかげん私も一人で生活できると思うんですけど…」

そう言うと彼女は頬をぷくーっと膨らませて不満をあらわにした。
話を聞く限り、彼女は幼き頃より至れり尽くせりの裕福な家庭に育ったことは想像に難くない。
貧乏の星の下に生まれ育った私には到底理解できない悩みもあるのだろう。

「中学までは何の疑問も持たずに、両親の言うとおり過ごしてきたんです。
 でも高校では色んな友達ができて、
 私はとても狭い世界のことしか知らなかったんだって気がついたんです」

気が付いただけよかったじゃないか、私に至っては気付くことを恐れ
自己を肯定し続けてきた結果がこの有様だ、と言いたくなったが
なんのアドバイスにもならないのでやめた。



42 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:16:35.70 ID:JcM4nRRK0

「実は私、高3の冬に私立の女子大に受かってたんです。
 それも両親が勧めた名門の学校だったんですけど、蹴ってこの大学に入りました。
 こっちの方が入るのが難しいし、自分で選んだ大学に行きたかったんです。
 でも、結局今も親の世話になっちゃって」

「頼れるうちは頼っておくのも親孝行だ。琴吹さんは卒業したら就職するんだろう?」

「そのつもりです。両親の会社に、後継ぎとして、ですけどね」

琴吹さんはどこか皮肉めいた言い方をした。
あらかじめ敷かれたレールの上をただ漫然と進むことに疑問を抱いているのだろう。
よくある話だが、実際は小説やドラマでしか聞いたことがない。
琴吹さんのようなお嬢様の要素を必要十分に兼ね備えている人物が
私のような例外的変態貧乏学生と釣り合うわけがないと思う一方、
彼女の典型的な悩みへの対処法を遺憾なく助言できるのはむしろ私の得意分野ではないかと思われた。

敷かれたレールをこなごなに破壊し、己で道を切り開くことに関しては自信がある。
しかし敢えて自ら険しい道のりを歩むことによって得られたものは、
およそ失ったものに比べ遥か無に等しいことは火を見るより明らかである。
彼女がいかに自分の境遇を嘆いているとはいえ、今まで得たものを失ってしまっては元も子もない。

破滅的なまでに大学生活を無駄に過ごしてきた私の巻き添えをくらって、
希望ある彼女の未来までをも台無しにしてはいけない。
それは人として間違っている。



44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:20:59.96 ID:JcM4nRRK0

「あっ、ご、ごめんなさい。さっきから私、自分のことばかりしゃべってしまって…」

琴吹さんはわたわたと慌て、ごまかすように紅茶をすすった。確かに彼女らしからぬ愚痴である。
若干頬を赤らめ上目づかい気味な彼女を前に、
紳士的体面を保つと決めた私の理性もどこか遠くへ行ってしまうかに思われた。

「ちゃんとお話したのは今日が初めてなのに、いきなり変なこと言ったりしてすみません」
「なに、気にすることはない」
「…じゃあ、今度は私が先輩に質問してもいいですか?」

琴吹さんが私に興味を持ってくれたのは大変喜ばしいことであるが、
質問の内容およびそれに対するやむにやまれぬ回答如何によっては
私に対して興味を失うどころか失望のまなざしを深々と投げかけるであろうに違いない。
失望するにしても、そもそも彼女が私に何を期待するのか、
もとより私が自己を語るに値する人間なのか、
様々な陰陰滅滅たる負の感情を巡らせながら、私は恐る恐る言った。

「なんでも聞いてごらん」

すると琴吹さんは身を乗り出し、少し張り切った様子で言った。

「さっき、何を占ってもらったんですか?」

彼女の眼に宿っているのは純粋に好奇心からくる光であった。
いたずらに繊細なハートを鷲掴みにし、弁護の余地もないほど
徹底的に変態呼ばわりするつもりは微塵も感じられず、私は安堵した。
が、素直に老婆との意味不明な戦略的人生計画のあれこれを話していいものか、私は少し迷った。

「う~ん…どう話していいのやら…。簡単に言えば、これから私は何をすべきなのか、を占ってもらった」
「まあ、なんだか壮大なお話ですね。それで、なんて言われたんですか?」
「色々と言われたが、要するに好機を掴め、ということらしい。私には何が好機だか分からなかったが」

嘘は付いていないが、ところどころ省いて説明したため彼女には妙に味気ない占いに聞こえただろう。
コロッセオだとか、そもそも今この時こそ好機なのだとかいう
いらん情報をおおっぴらに宣言する必要もあるまい。



46 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:25:07.03 ID:JcM4nRRK0

「へぇ~。道端の占い師さんに占ってもらうなんて、私もやってみたいです」
「そんなに楽しいもんじゃないけどなあ。お金だって取られるし」
「でもなんだか面白そう。きっとそのお金に見合った助言をしてくれているんです」

琴吹さんはどんなに些細なことでも好奇心を隠しきれないという印象であった。
彼女は紅茶をおかわりしに台所へ赴き、
「私だったらなんて占ってもらおうかしら~」とニコニコしている。

気がつくと私は先程まで震えあがって緊張していたのが嘘のように落ち着き、
菩提樹の下で悟りを開いたかのような気分でいた。
限りなくお釈迦さまへの冒涜に近い心境に達したのも、
彼女が極上のリラクゼーション空間を知らずの内に作り上げているからに他ならなかった。
我が愛しの四畳半とはまた違った余裕のある居心地の良さ、
俗世から切り離されたかのような高揚感、そしてなによりおいしい紅茶とお菓子。
心の平安を取り戻した私は、今一度冷静に自分の置かれている状況を分析した。
私は綿密に物事を分析して分析して分析し尽くした挙句、おもむろに万全の対策をとる。
むしろ万全の対策が手遅れになることも躊躇せずに分析する男である。

「先輩、どうぞ~」

新たな紅茶が運ばれ、琴吹さんが脇のソファへと腰を下ろした。
私は改めて彼女をまじまじと観察した。ふっくらとおもちのように柔らかそうな肌、
聖母マリアを彷彿とさせるあふれんばかりの母性、そして温かみのある目元、
包容力のある笑顔、すべてが完璧だった。決して卑しい目で見ていたわけではない。
これぞ私の理想とする幻の繊細微妙なふわふわの黒髪の乙女なのではないか。
琴吹さんは黒髪ではないが、細かいことはどうでもよい。大切なのは心である。

「?先輩、私の顔に何か付いてますか?」

私は慌てて目線を紅茶へと向けた。

「な、なんでもない」

あからさまに挙動不審を見せびらかし、
向かいにいるのが琴吹さんでなかったら通報されても文句が言えない規模まで
犯罪めいた行為をしていたことに気付いた私は、
思いついたようにお菓子をぽりぽりと食べてごまかした。



47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:30:56.98 ID:JcM4nRRK0

空も白んできた明け方の街を歩いた。
実に数時間にも渡って琴吹さんとお茶を飲み、まるで以前から親しい仲だったかのように会話は弾んだ。
夢のような幸せを思うさま満喫していたはずなのに、
「明日も学校があるので」と自ら彼女を気遣って帰宅を申し出たことが悔やまれてならない。

しかし案ずるなかれ、私はとうとう好機を掴むことに成功した。彼女の連絡先を手に入れたのだ。
棘だらけの思い出とともに残っているかつてのサークルの同輩たちの名前や、
記憶の隅に追いやられた顔も浮かんでこないような哀れな者たちの名前がひしめく
携帯電話のアドレス帳に燦然と輝く「琴吹紬」の文字。

男性から女性へ連絡先を尋ねるなど、
理性を放擲して闇雲に結び付かんとする軽佻浮薄な輩のすることである。
がつがつと醜く女性の尻を追いかけ妥協に妥協を重ねた結果、
偽物の恋を手に入れるくらいならむしろ私は名誉ある孤独を選ぶだろう。
そう思っていた時期が私にもあった。

しかし時代は変わったのである。
義務教育や高等教育の現場における学問的、
人間的閉鎖空間から解放され一時の自由を約束された大学生が、
目前に広がる無限とも思しき異性との交際に躍起になるのも無理からぬ話である。
切っては結ばれ、切っては結ばれを繰り返す赤い糸を尻目に、
何も行動を起こさない者はただ指を咥えて見ていることしかできない。
入学から二年の歳月を経て私がその事実に気付いた時にはもはや手遅れかと思われた。

琴吹さんとお茶を飲み交わしていたとき、そのような七転八倒の孤独な心理的暗転の末、私は決心した。
タイミングを計り、ここぞという所で男らしく所存のほぞを固め、彼女に声をかけた。

「そういえば、知り合ってから半年近く経ってるのにお互い連絡先を知らないというのも寂しいな。
良い機会だから、琴吹さんのアドレスを教えてくれないだろうか」

我ながら極めて流暢に、かつ自然に話しかけられたことに驚嘆した。
琴吹さんは快く了解してくれた。



49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:35:44.29 ID:JcM4nRRK0

おびただしい量のカフェインを摂取したためか足取りも軽やかに、
朝のすがすがしい日光に浄化された気分で帰路についた。
昨日一日で私に明日を生きる希望を与えてくれた琴吹さんに感謝しなくてはいけない。

これを機に、良き友や先輩後輩に恵まれ、溢れんばかりの才能を思うさま発揮して文武両道、
その当然の帰結として傍らには黒髪の乙女改め琴吹さん、目前には光り輝く純金製の未来、
あわよくば幻の至宝と言われる「薔薇色で有意義なキャンパスライフ」をこの手に握ることであろう。

めくるめく妄想の果て、無駄に元気を持て余したかに見えた私も、
下鴨幽水荘に帰りついた時にはいささかゲンナリした。
普段よりいっそう薄汚く感じられ、これがお前の現実なのだと突きつけられたように思えた。
部屋の前まで足を運ぶ頃にはすでにカフェインによる覚醒も切れてしまい、
疲れ切った私はそのまま四畳半の万年床に倒れ伏した。

午後の講義に間に合うように目覚ましをかけ、
温まってやわらかくなる布団の中でひとまず眠りに着くことにした。



52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:39:08.50 ID:JcM4nRRK0

まだ六月の半ばだというのに、もう夏が来たかのように蒸し暑い。
けたたましい目覚ましの音にむりやり体を起こし、午後の講義の支度をした。
昨日の出来事がまだ頭の中にチラついてしまい、
これからは女性との出会いが引きも切らず、予定帳には逢引の予定がびっしり、
喉から血が出るほど睦言を語らねばならないだろうと、たくましく妄想に余念がなかった。

その日の講義もいつも通り何事もなく流して聞き、
食堂で遅い昼飯を軽く済ませ、つつましくも平凡な学生生活を滔々と過ごしたが
四畳半で夕飯の魚肉ハンバーグを焼いているときにふと思った。
今日一日、私は何事も為していない。
ただただナイアガラ瀑布のごとく貴重な時間を浪費しているだけではないか。
私は非常に今更ながら、焦った。焦ったついでに魚肉ハンバーグを足元へ落としあやうく火傷しかけた。

琴吹さんと連絡先を交換しただけでは何も進展しないではないか。
願わくば彼女の方からデートのお誘いだの近況報告だのを心のどこそこで期待していたのではないか。
なんたる紳士にあるまじき腑抜けた性根よ。
私は自分を叱咤し、いかにして残り少ない学生生活を有意義に過ごせるか思案をこねた。
しかし今までの二年間数多の機会を見事に棒に振ってきた私が昨日今日で変わるとも思えない。
琴吹さんに何かしらの連絡でもと考えたが、いきなり夕飯でも一緒にいかがですかなどと
およそ紳士の面をした変態を嗅ぎつけられたら全ては水の泡である。
ここは定石通り昨日は楽しかったです、の旨をさらりと伝え
次の機会を伺うのが今の私にできる精一杯のことであろう。

携帯電話を取り出し当たり障りのない無難な文章を打ち込み、
推敲して長くも短くもせずそれらしくまとめ、
いまどきの顔文字を一般的な女子大生が違和感なく受け入れられる程度に添えて送信のボタンを押した。
返信が来ない場合を想定して、最後は『次の英会話教室でまたお会いしましょう』と
返信してもしなくても自然な文章を付け加えた。

ささやかながら、しかし確実に一歩ずつ前へ踏み出せたような気がして
妙な達成感に浸っているとき、部屋のドアをドンドンと叩く音が聞こえた。
ここ最近ではもはや私の部屋を訪ねるのは新聞か宗教の勧誘、
もしくは小津しかいなかったので、十中八九それが小津だと分かった。
玄関のドアを開けると何やら四角い箱を抱えている。



55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:44:42.74 ID:JcM4nRRK0

「おや、今日はなんだか機嫌がよさそうですな」
「別段いつもと変わらん。むしろお前の顔を見て気が滅入っているところだ」
「またそんなひどいことをおっしゃる。こんなに可愛らしい顔をしているのに」

小津のぬらりひょんのような顔を見て
可愛らしいという言葉が出てくる人が居るとすればそれはおそらく人ならざる者だろう。

「相変わらず陰険な態度ですな」と彼は言う。
「恋人もいない、サーカルからも自主追放された、
 真面目に勉強するわけでもない。あなたはいったいどうするおつもりだ」
「おまえ、口に気をつけないとぶち殺すぞ」
「ぶって、しかも殺すなんて、そんな。ひどいことを」
小津はにやにやした。「これあげるから御機嫌なおしてください」
「なんだこれ」
「カステラです。樋口師匠からたくさんもらったので、おすそわけ」
「めずらしいではないか、おまえが物をくれるなんて」
「大きなカステラを一人で切り分けて食べるというのは孤独の境地ですからね。
 人恋しさをしみじみ味わってほしくて」

樋口師匠とは同じ下鴨幽水荘の2階に住む人物である。
その「師匠」とはいったい何者なのかと訊ねても、
小津はにやにやと卑猥な笑みを浮かべるだけで答えようとしない。
おおかた猥談の師匠であろうと私は思っていた。



58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:50:01.37 ID:JcM4nRRK0

「おや?あなた携帯が鳴ってますよ」

手元に置いてあった携帯にメールが届いた。
きっと先程の返信であろう。本能的に私は携帯を隠したが既に遅かった。

「なになに…琴吹紬?まさか、とうとう出会い系に手を出したんじゃ」
「そんなわけあるか」
「じゃなきゃ、あなたに女性からメールが来るなんて説明がつかない」
「俺にだってそれなりの人付き合いというものがある。ほっとけ」
「そんなこと言って、その女性に卑猥な言葉を送りつけて興奮するんでしょう、
 まったく手のつけられないエロなんだから困ってしまう。この桃色筆まめ野郎!」
「そんな不埒なことはせん」
「またまた。僕には分かってます。あなたの半分はエロで出来ている」

小津はさんざん私を小馬鹿にしたあと、「今宵は師匠のところで闇鍋の会があるのです」と言って出て行った。
私は心の平穏を取り戻し、一人孤独にカステラをほおばりながら琴吹さんからのメールを確認した。

『私もとても楽しかったです。また今度機会があれば遊びに来てください。ではまた英会話教室で』

遊びに来てくださいと言われて、じゃあ今から遊びに行きますというほど私は野暮ではないし
社交辞令に過ぎないことは分かっていたが、素直にうれしかった。
出来ればこのカステラを一緒に食べたいと思った。



62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:54:10.06 ID:JcM4nRRK0


  ○     ○     ○

大学に入ってからの友達とのお付き合いは、高校のそれとは比べ物にならないほど味気ないものでした。
桜ケ丘高校を卒業してからすでに1年と少し経ち、
同じく卒業していった私の友達とはまだ連絡を取り合っていますが
最近はみんなも忙しくなり、会う機会も減っています。

高校のころに組んでいたバンド「放課後ティータイム」のメンバーは
それぞれ自分の望む進路へ進み、思い通りとまではいかないものの
みんな自分の生活を楽しんでいるようでした。
私自身も楽しくないわけではなかったけれども、どこか物足りないと思っていたのも事実です。
大学の友達とはおしゃべりもしますし、一緒に遊びに行くということも何度かありましたが、
どこか私に遠慮していることが薄々と感じ取れたのです。
高校の頃、放課後ティータイムのみんなは一人の友達として平等に接してくれました。
今でも逢うときはお互いにふざけあい、心の底から笑うことができます。

けれど、いつまでも楽しかった過去に縛られていては今を楽しむことは出来ないのです。
私は自分にそう言い聞かせ、せっかくの大学生活なのだから
思う存分やりたいことを成し、後悔のないようにと心に決めました。

私が進学した大学は日本の幾多の学問施設の中でもとりわけ優秀な学生が集まる場所でしたので、
ひとまず勉学に勤しむことにしました。

大学の勉強というのは知的好奇心を大いに刺激するもので、
まるでどこか知らない土地へ旅をするような楽しさがあります。
目的をもって敢然と己の勉学の道を歩んでもよし、
ときには寄り道をしながら新しい発見に心躍らせてもよし、とひたすらに自由だったので
始めこそ戸惑いましたが、時には夢中になってレポートを書きあげることもありました。

そして1年生の秋、大学生活にも慣れてきた頃に、私は英会話教室に通い始めたのです。
私の実家が経営している会社の多くは海外にも進出しているので、
より広い世界を知るためには英語力が必要不可欠だと悟りました。
英会話教室は受験や大学で学ぶ英語とは違い、
とても開放的で堅苦しくないものなので、変に気を張らずにのびのびと英語を学ぶことができます。
私は元々のんびりとした性格なので、自分のペースで英語のスピーチをし、
クラスメイト達に拍手喝采を受けるのはとても気持ちの良いものでした。

先輩が新しくクラスメイトになったのは、私が入ってから数週間後のことです。



63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 02:57:27.58 ID:JcM4nRRK0

先輩はとりわけ期待の新人というわけでもなく、ましてや英語を自由自在に操れる風には見えなかったので
初めのうちはやはり上手くいかないようでした。
でも、一生懸命会話しようとする姿勢に、私はとても好感を抱いたのを覚えています。

英会話で聞き取れた自己紹介からは、先輩が私と同じ大学に通っていて1つ上の学年だということ、
何か一つでも自分の得意な分野を持ちたくてこの英会話教室に入ったこと、などを知りました。
クラスに同じ大学に通う人は他にいませんでしたから、
先輩とならいろいろと話も弾んで楽しいクラスになるのでは、と期待していましたが
なかなかその機会に恵まれず、ついこの間までまともに話すこともありませんでした。
あの時たまたま迷い込んだ路地に先輩がいなければ、
めったに会えないとても楽しくて愉快な出来事を体験することはなかったでしょう。


その日はいつも通りに英会話教室が終わり、いつも通り帰路に着こうとしていたところです。
私はふと思い立ち、小さな冒険をしてみようとしたのです。
時折私はこんなふうにささやかな好奇心を発揮し、やんちゃな行動を起こすことが少なくありませんでした。
それもこれも放課後ティータイムのみんな、特に唯ちゃんとりっちゃんの影響だと私は勝手に考えています。

普段と違う薄暗い夜道を一人で歩くのは思った以上にスリルがあるものです。
こんなところを執事の斎藤に見られたら無理やり連れて帰らされた挙句、
お父様からきついお叱りを受けることでしょう。
道行く人たちは大声で何かを歌ったり、ふらふらとおぼつかない足取りで
両脇の人に支えられていたりと夜の顔を少しずつのぞかせています。
その魅惑の大人ぶりといったら、私が今まで経験したことのない
新しい世界がそこに開けているような気がしました。

私はまだ二十歳を迎えていないのでお酒は飲めないけれど、
いつか私も無手勝流にお酒を嗜みたいなとぼんやり考えながら歩いていると
困ったことに自分が今どこにいるのか皆目見当がつかないことに気付いたのです。
冒険してみたはいいけれど目的地に着かなければ意味がありません。
周りももはやすっかり暗くなり、どうしようかなと考えている時、ちらと遠くに先輩の姿が目に入ったのです。



64 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:02:42.80 ID:JcM4nRRK0

そっと近づいてみると、先輩はなんだか真剣な表情で小さなお婆さんと話しています。
橙色に光る行燈や小ぢんまりとした机に垂れかかっている布を見る限り、
どうやら占いをしてもらっているようでした。
占いが終わり、先輩が釈然としない表情で料金を支払っているとき、私は思い切って声をかけてみたのです。
私が道に迷っていて、図々しいながらも一緒に帰りませんかとお願いしたところ、先輩は快諾してくれました。
結果、私の勘違いで先輩が遠回りしてしまった事態になり、
大学に入ってから一度も知り合いを招いたことのない私の部屋でお礼をさせていただくことになったのです。

そこで私は柄にもなく愚痴を漏らしてしまいました。
しかもお父様や実家のことなど、他の誰にも打ち明けたことのない話を
一方的に語ってしまったのは自分でも驚きです。
確かに琴吹家や両親に縛られていて不満を感じているということは少しありましたけれども、
それは高校から大学にかけてのことで今は自分のことで精いっぱいで悩んでいるつもりはありませんでした。
ただ、時々そういった不満を強く思うこともあったのは事実です。

実際、私が一人暮らしをしたいと両親に願い出たときにはとても反対されました。
家は大学からそう遠くないのになぜわざわざ一人暮らしをする必要があるのか、
一人暮らしでもしものことがあってはならない、とお父様をはじめ様々な人に言われました。
でも、私も普通の大学生として一人暮らしをしたいと強く希望したのです。
お父様も仕方なしに折れてくれましたが、結局は親に甘えている現状に変わりありません。

ここ最近ではむしろ開き直ってきてしまい、特に気にすることも無くなっていたのですけれど
たまに、何度か両親の過保護が行き過ぎている時もありました。
かつて夜遅くまで大学の友達の家で遊び、寝泊まりしようとしたとき、
突然斎藤が車で迎えに来たことがあったのです。
半ばむりやり帰らされ、お父様にこっぴどく叱られました。

実はあの日、先輩が帰ったあとにも斎藤が部屋を訪ねてきたのです。

「紬お嬢様、くれぐれも夜の遊びはご控えください。私が庇っていられるのも限界があります。
 特に今夜は男を連れ込むなど、旦那さまに知れたら私は首です」
「…分かったわ。でも斎藤、聞いて。このままだときっと私、世間知らずの駄目な人間になってしまうわ。
 もっといろいろな経験をしたいの。お父様の会社を継げというなら、継ぎます。
 だから、せめて自由でいられる時は好きにやらせてほしいの…」



65 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:05:54.40 ID:JcM4nRRK0

「…それは旦那様におっしゃってください」
「何度も言ったわ!でも聞く耳をもってくれないの…」
「紬お嬢様を思ってのことです」
「それも何度も聞いたわ…。ごめんなさい、こんなわがままばかり斎藤に押し付けちゃって…」
「………」

このようなやり取りを過去に幾度と繰り返して、そのたびに斎藤を困らせてきました。
確かに私は親不孝者かもしれません。これほど裕福で恵まれた環境に育って
なお文句を言おうとしているのがどれだけわがままなのかも分かっています。

「…わざわざ忠告しに来てくれてありがとう。あの男性は大学の先輩というだけで特に何もありません。
 絶対にあの方に余計な探りなどいれないこと」
「…承知致しました」
「…おやすみなさい、斎藤」
「紬お嬢様こそ、体調には充分お気をつけ下さい。わたくしめはこれで…」

斎藤が静かに扉を閉め、あたりが夜明け独特の静寂に包まれました。
先程まで先輩と楽しくおしゃべりしていたのに、
窓から暖かい朝日が差し始めると急に眠気が襲ってくるのです。
私は嫌なことを忘れるように思い切りベッドに倒れ込みました。
自然とまぶたが閉じる中で、今日の出来事を頭の中で少し思い出していました。

私が先輩と遅くまで話をしていたのは単にお礼をしたかっただけではなく、普通の大学生活や
自分の知らない世界を先輩に感じていたからなのかもしれません。



69 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:09:14.42 ID:JcM4nRRK0


  ○     ○     ○

琴吹さんとの一方的な恋の駆け引きを演じてから1週間、
私が精神力、忍耐力、知力、その他人間的に一皮剥けた立派な青年を目指すべく
健康的な生活を送ってきたかと言えば、残念ながら残念でしたと言うほかない。
当初は私も目前に控えたかに見えた薔薇色の交際への布石を打つべく、
肉体的な鍛練や学問への精進を覚悟して臨んだこともあったが
ここ数日の記録的猛暑の所為により早くも志半ばに挫折したのである。

我が四畳半において、移り行く四季の中でもとりわけ夏は過酷を極める季節であった。
地獄の釜茹での片鱗を思わせる室温に、よどんだ空気が種々の秘密成分を織り交ぜながら
じっくりと時間をかけて熟成され、
ひとたびこの四畳半に立ち入ったものを完膚なきまでに酩酊させずにはおかない。
湿度と温度に敏感なギー太郎を部屋の隅にたたえ、私は何もする気が起きず部屋の空気と一体化していた。

蒸し暑い日中をなんとか切り抜け、ただただ不毛な我慢大会を
人知れずやり遂げた私は今日の英会話教室の準備をするため重たい腰を上げた。
ついでに何か冷たい飲み物を求めて冷蔵庫を開けたが、
無計画な水分補給や不規則な食生活によって飲み物はおろか食べ物もなく
賞味期限の切れた納豆が一つ、恨めしく奥へ追いやられているだけであった。
今から買い物に行くのもためらわれたが、
涼しくなってきたこの機を逃すわけにはいかないと思い、私はそそくさと食材を買い足しに出かけた。

大学にほど近いスーパーは、財布への信頼に一抹の翳りある私のような人間を
何度も貧苦から救いだした名誉ある学生支援物資センターであり
その驚くべき価格設定は天晴れの一言である。
この日も私は値段とおいしさを天秤にかけ、うんうんと吟味していると不意に横から声をかけられた。

「先輩、こんなところで会うとは奇遇ですね」

横にいたのは明石さんであった。




70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:10:57.02 ID:IQuKxRB40

おお明石さん出るのか



71 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:11:19.39 ID:Ftmwsrvx0

明石さんキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!!!





72 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:12:51.07 ID:JcM4nRRK0

明石さんは私の一つ下の学年で工学部に所属している。
彼女は私がかつて入っていたバンドサークル『ぴゅあぴゅあ』の後輩にあたり、
たびたび私の演奏を聴いてくれることがあった。
まっすぐな黒髪を短く切り、理屈に合わないことがあると眉間に皺を寄せて反論した。
そう簡単には弱々しいところを見せない女性であった。
歯に衣着せぬ物言いで、同回生からも敬遠されていたようである。
彼女自身は楽器の腕前も良く、万事手回しがいいし
機材の扱いも一瞬で呑み込んでしまう頭の良さだったので、
遠巻きにされつつも尊敬されている面があった。
その点、同じ遠巻きにされつつ軽蔑されている私や小津とは雲泥の差がある。

小津に聞いた話だと、私たちがサークルを辞めてしばらくしてから明石さんも辞めたそうだ。

「彼女も少しサークルで浮いた存在でしたからね。
 今はバードマンの設計でもしてるんじゃないかな」とは小津の言葉である。

実に数カ月ぶりに顔を合わせたのだが、彼女の冷ややかで理知的な目線は相変わらずであった。

「明石さんじゃないか。珍しいね」
「お久しぶりです。先輩も『極寒麦酒』をお探しに?」
「極寒麦酒?なんじゃそりゃ」
「巷でまことしやかに噂されている幻の麦酒のことです。
 一口飲めばその冷たさは尋常ではなく五臓六腑にしみわたり
 下手をすれば冷え性をこじらせてしまうという、にわかには信じ難い麦酒らしいのですが…」
「それがこのスーパーに?」
「あくまで噂です。いつ搬入されるかも分かりませんし、
 そもそも実在するかどうかすら怪しいので確証はありません」

あるとすれば今後の本格的な夏に備えてぜひとも買いそろえておきたいものだ。

「それで、その極寒麦酒は置いてあったのかね?」
「残念ながら見当たりませんでした。先輩ももし見つけたら早めに買っておくことをお勧めします。
私は他のお店をあたってみますので、これにて失礼します。では」

明石さんはそれ以上会話する必要性を感じていないかのように颯爽と去ってしまった。
私は「明石さん、そのまま君の道をひた走れ」と心の中で熱いエールを送った。



75 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:18:41.11 ID:JcM4nRRK0

買い物を終え外に出ると、今にも雨が降り出しそうな曇が空を覆っており
私はじめじめとした空気を裂いて自転車を走らせ早急に部屋に帰ることにした。
家に着いた直後に夕立が降り、出かける前に窓を開け広げていたことを思い出した。
あわや四畳半が水浸し、貴重な書籍類を猥褻非猥褻のへだてなく
ふやけさせるかとも危惧したがなんとか間に合い、事なきを得た。

私は先程買った麦茶をぐびぐびと飲みながら、これから始まる英会話教室のことを考えていた。
外では雨が節操もなく派手な音を立てているし、
こうも閉め切ったむさ苦しい部屋ではてきぱきと準備をするのでさえやる気がそがれる。
だが今日は行かないわけにはいかない。なぜなら琴吹さんに会うためだからである。
幸いなことに英会話教室へと向かう前には夕立は止み、
私は梅雨の季節を肌で感じながら街を歩いて行った。

  ○     ○     ○

今週もまた英会話教室の時間がやってきました。
先程まで激しく降っていた夕立もすっかり止み、濡れた路面を慌ただしく人や車が往来しています。
今日は朝から湿気が多く、癖毛の私にとって梅雨の時期はどうも苦手です。

教室に入り準備をしていると、先輩が少し遅れてやってきました。

「おや、琴吹さん今日は早いな」
「雨が降っていたのでいつもより早めに家を出たんです。もうすっかり止んじゃいましたけど」
「梅雨もそろそろ本格的になってきたかなあ」
「天気予報では明日から雨がひどいそうですね」
「雨もそうだが、やはり湿気がどうも苦手だな」
「私も、今朝は髪の毛をセットするのにすごい時間かかっちゃいました」

先週たっぷりとお話したせいか、今では他愛のない会話でも長く続きます。
これが英会話となると先輩はとたんに口数が少なくなるのですが、先輩曰く
文法的に破錠した英語をしゃべるくらいなら、栄光ある寡黙を選ぶのだそうです。



81 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:23:31.33 ID:JcM4nRRK0

今日の授業も先輩は小津さんという人物について熱いスピーチを披露していました。
この半年間、私たちクラスメイトは顔も見たことのない
小津さんという人物に関する知識が飛躍的に増えました。
それが良いことなのかどうかは分かりませんが、先輩のスピーチは妙に説得力があり
その熱弁ぶりも含めクラスメイトからの評判は上々でした。

先輩の話を聞く限り、小津さんという方は
常に悪事を働いていないと気が済まない人という印象を受けます。
誰彼の恋路を邪魔しただとか、あらぬ噂を周りに広め他人を不幸に陥れるだとか、
どこまで本当のことかは定かではありません。
私はそのような人が実際にいるなんて信じられなかったのです。
でも、そんな悪友の話をするときの先輩はとても楽しそうでした。


そして私は今日、放課後ティータイムついてスピーチをしました。
というのも、実は二日ほど前に久しぶりにメンバーと会う機会があったからです。

きっかけは私が昼過ぎに駅前で買い物をしている時に、
たまたま唯ちゃんと出会ったことから始まりました―――。



85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:28:50.59 ID:JcM4nRRK0


 ――――――
 ――――
 ――

「あれ?もしかしてむぎちゃん?」
「え?」
「やっぱりむぎちゃんだ~。久しぶりだね、元気してた?」

唯ちゃんと最後にしゃべったのは今年の3月、大学の春休みの時以来でした。
彼女は高校を卒業しても、ちっとも変っていません。

「唯ちゃん!こんなところで会うなんて久しぶりね。私は変わらず元気よ」
「えへへ~。むぎちゃん、今ひとり?」
「そうよ。唯ちゃんも買い物?」
「そうなんだよ~。せっかくだし、二人で見て回らない?」
「うんっ!」



89 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:32:48.27 ID:JcM4nRRK0

唯ちゃんは高校を卒業後、家から離れたS大学に進学したそうです。
そこでも軽音楽サークルに入り、ライブハウスなどでも積極的にバンド活動をしているみたいです。

「唯ちゃん、最近どうなの?」
「どうって?」
「ほら、大学の事とか、ライブの事とか」
「あっ、そういえばこの間ライブやったんだよ~」
「そうなの?見に行きたかったな」
「ほんとは誘おうと思ってたんだけど、忙しくて忘れちゃった」
「ふふっ。唯ちゃん相変わらずね」
「あっ!見て見て、この服かわいいよ~」

彼女と居ると、なんだかとても楽しい気持ちになれます。もうお互い大学2年生だというのに
高校生のようにきゃっきゃとはしゃぎながら夢中で買い物をしました。
そうこうしているうちに時間も経ち、今日は一緒に夕飯を食べよう、ということになりました。

「唯ちゃん、何か食べたいものある?」
「え~とね…むぎちゃんの手料理が食べたい」
「ふえ!?」
「だって私まだ一回もむぎちゃんの家行ったことないし、むぎちゃんの手料理も食べたことないもん」

よく分からない理由でしたが、断る必要もなかったので私は喜んで家へ招きました。



90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:35:02.65 ID:JcM4nRRK0

私の部屋を見た唯ちゃんはやっぱり驚いているようでした。

「すご~い!むぎちゃんの部屋広いねぇ~。私の部屋の2倍…3倍くらいあるかも!?」
「唯ちゃん、夕飯は何がいい?」
「なんでもいいよ~」
「じゃあ、出来るまでちょっと待っててね」
「ほいほ~い」

唯ちゃんは私が料理を作っている間テレビを見たりして時間を潰していました。
ときどき家事や料理を手伝ってくれたりと、彼女も高校の時に比べ少し大人になったような気がします。
その日は冷蔵庫に残っていたありあわせの料理しか出来なかったけど、
唯ちゃんはとても喜んでくれていました。

「お、おいしぃ~!こんなに豪華な夕飯久しぶりだよ~」
「もうちょっとたくさん作ろうと思ったんだけど、あまり冷蔵庫に残ってなかったの…ごめんね?」
「そんなことないよ!私なんてもっと適当に作ってるし。むぎちゃんってば良いお嫁さんになりそうだよね~」
「唯ちゃんったら、もう」

夕飯を食べ終わった後にも、色々なことを話しました。
放課後ティータイムの他のメンバーが今どうしているのかという話題になり、
私は新しい情報を唯ちゃんから聞きました。

「そういえばあずにゃんね、なんと私と同じ大学に入学したのです!」
「ええっ、そうなの?じゃあ憂ちゃんは?」
「憂はK大に行ったよ」
「K大!?すごい名門じゃない!」

私はてっきり憂ちゃんが唯ちゃんと同じ大学に進学するものだと思っていました。



91 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:40:51.44 ID:JcM4nRRK0

「りっちゃんや澪ちゃんはどうしてるのかしら…」
「私も最近は全然みんなと連絡取ってないから分かんないや」

唯ちゃんは事もなげに言います。
まるで軽音部は過去のこと、今の自分には関係ないかのようにあっさりとしています。
きっと彼女は今を楽しむことに精一杯で、想い出に浸っている余裕はないのでしょう。
私は、寂しいとは思いませんでした。

唯ちゃんも私も、少しずつ大人になってきたのです。

「そういえばむぎちゃん、お酒とか置いてないの?」

唐突に唯ちゃんが言いました。

「え?お酒はないけど…」
「もしかして飲んだことない?」
「ないわ。だって未成年だもの」

唯ちゃんは「おお…」と小さく驚いた後、目を輝かせて私の手をとりました。

「流石むぎちゃん!偉い!」

彼女はなにやら感激しているようでした。



92 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:44:19.60 ID:JcM4nRRK0

「そ、そうかしら…」
「普通、大学生だったらお酒と出会うもんだよ。
 それでもちゃんと法律を守ってお酒を飲まないなんてむぎちゃんは偉いっ!」

そういうものなのかしら。
私は普通に大学生活を送ってきたつもりだったけどお酒に出会う機会は滅多になかったし
そもそも普通の大学生活を送っていたら未成年でもお酒は飲むものなのでしょうか。

「もしかして唯ちゃん、お酒飲んでるの?」
「少し、ね。だいたい飲み会とか、友達に誘われて…っていう感じなんだけど」

私としてもお酒に興味がないわけではありません。

「ね、唯ちゃん。お酒って美味しいの?」
「う~ん…美味しい、といえば美味しいのかな?私もよくわかんない。
 でも、みんなで飲むのは楽しいよ!」

私はこのとき、唯ちゃんから魅惑の大人の香りが漂ってきたような気がしました。

「今度機会があったら、その時はお酒飲もう。澪ちゃんもりっちゃんも、あずにゃんも呼んでさ!」
「うん!楽しくなりそうね」

私は唯ちゃんとひとしきり話しこんだ後、帰りの終電に間に合うように駅まで送っていき、別れました。
久しぶりの友達との楽しい一日を過ごし、
私は寝る支度をしながら放課後ティータイムの想い出に浸っていました。

そして、お話は英会話教室に戻ります。



93 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:50:51.72 ID:JcM4nRRK0


  ○     ○     ○

「雨、また少し降ってきたみたいですね」

英会話教室も何事もなく終わり、出口へ向かう所で琴吹さんに声をかけられた。
外の様子を見ると、暗がりではあったが確かにぽつぽつと雨音がする。

「明日から大雨だと聞いてるからなあ。このまま止みそうにないな」
「せっかく明日はお休みなのに、これじゃあんまり外に出たくありませんね」

琴吹さんは残念そうに笑った。言われるまで気付かなかったが、そうか、明日は大学は休みか。
思い返してみればここ数日多忙をきわめていたような気がしないでもない。紳士にも休息は必要である。
私はなんだか得したような気分になり、上機嫌で琴吹さんと外へ出ようとしたが、はたと気づいた。

愛用の傘がどこにも見当たらない。
奇怪なり。
私は一瞬思考を巡らせ、一呼吸置いた後、傘が盗まれていることを理解した。
愛用とは言ってもまだ数回しか開いていない新品同様の安いビニール傘であったが、
休日の喜びを補って余りある怒りに駆られたのは言うまでもない。

「先輩、どうかしましたか?」

急に動きを止めた私に琴吹さんが不思議そうに声をかけた。



95 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:55:26.78 ID:JcM4nRRK0

「私の傘がない。きっと心ない者が盗んでいったんだろう」

私の不幸をよそに、外ではいっそう強く雨が降り続けている。
私は途方に暮れた。

「あの……私の傘、使いますか?」
「それでは君が帰れなくなってしまうだろう」

琴吹さんの心遣いはありがたかったが、相合傘でもしない限り2人が安全に帰ることはできないだろう。
むしろ相合傘によって私の精神構造が不安定に揺れ動くことは想像に難くない。
おもむろに妄想の世界へ羽ばたきかけた私であったが、
次の瞬間その妄想が現実になろうとは夢にも思わなかった。

「私の傘大きいので2人くらい入れますし、今度は私が先輩を送って差し上げる番です。
 それに、一度先輩の家にも行ってみたいですし」

私は目眩がした。
いくらこの一週間でそれなりに親しくなったといっても、これではあまりに話が急すぎる。
何か大事な過程をすっとばしているのではないか。

私とて一つ傘の下、琴吹さんと仲睦まじく帰宅し、紳士らしく部屋へ招き入れるにやぶさかでない。
しかし私の暗黒面を限りなく凝縮したような四畳半空間へ、
それこそ穢れを知らない深窓の令嬢を誘致するとなれば話は別である。
私のなけなしの人間的尊厳と、四畳半の混沌すら意に介さぬ紳士的態度、
ひいては圧倒的な男性的魅力を思う存分発揮するチャンスだと思ったら、
それは大間違いのこんこんちきである。
そんな結構なものをこれみよがしに携えて琴吹さんを招いても、嘆かわしいほど双方に得るものがない。



97 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 03:58:31.74 ID:JcM4nRRK0

しかしながら、私の冷静かつ客観的な分析とは裏腹に、
琴吹さんと2人きりで過ごすという耐えがたい魅力が脳裏をかすめていく。
次第に妄想は体中の欲望という欲望を吸い上げ爆発的に肥大化し、
一大勢力となって脳味噌を支配しようと暴れまわる。

意味不明の葛藤に苛まれることおよそ0.5秒、
スーパーコンピュータもかくやと思われる驚異的な思考速度の末に私が導き出した答えは
抗わないことであった。

全てを受け入れよう。
ありのままの自分をさらけだそう。

「ならばお言葉に甘えるとしよう。私が傘を持つよ」

琴吹さんは嬉しそうに笑った。
桃色遊戯の達人を目指す器でないなら、変に気取るよりも精一杯の誠意を示す他あるまい。

ざあざあと降りしきる雨の中、私は琴吹さんとくっつき、並んで歩いた。
深窓の令嬢の横で紳士らしく傘を携え、優雅にエスコートする映像がありありと思い浮かばれる。
私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
決して自分と琴吹さんの間にある絶対的な違和感を感じ取ったわけではない。
灰色がかった人生の、かすかに残された希望の光へ向かっていく覚悟に震えたのだ。

そこでふと、琴吹さんの方へちらっと眼をやる。
彼女は相合傘という一大イベントの渦中にあっても、まったく意に介していないように静かに歩いている。
その横顔は凛としていて、薄暗い路地を背景に整った顔つきが美しく映えている。
気分を曇らせる雨が周りに打ちつけられていても、
その雨粒一つ一つが琴吹さんの艶やかな色気を演出していた。

私はごくりと生唾を飲み込み、その横顔からとっさに目を背けた。
言い知れぬ罪悪感がぞくぞくと込み上げる。私は未だかつて経験したことがないが、
これが美女の魔性なのかと恐怖に怯えた。もしかしたら彼女はその美貌で男を惑わす魔女なのではないか。
取って食われたらどうしようといらん心配をする必要もなく、
むしろ心置きなく取って食べられたい衝動に駆られた。



100 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/19(日) 04:02:29.41 ID:JcM4nRRK0

道中、私と琴吹さんの間には心地よい沈黙があった。
というのは体の良い言い訳であり、実のところ会話の切り口に迷って押し黙っていただけである。
当の琴吹さんも何か話しかけてくる様子もない。

隣に歩く彼女を直視できないせいで私は都合の良い客観的風景を想像した。
そこには紛れもなく繊細微妙で確固たる男女の仲が存在しているように思えた。

一人こそばゆい妄想に身を悶えさせ、紳士の面構えを保ったまま鼻の下だけ異様に伸ばすという
器用な顔芸をしていることに気付き、我に返った。

まあ、そんな具合の帰路だったと思ってもらって問題はない。
私と琴吹さんは湿っぽい下鴨幽水荘に到着した。

「ここが先輩の住んでいるアパートなんですね」
「見ての通り立派な建物ではないが、立地はわりと良い。私の部屋はこっちだ」

そう言ってかの四畳半へ案内した。
私にしてみれば見飽きた廊下の風景だが、
琴吹さんはしきりに辺りをキョロキョロと興味深そうに観察している。
それに、なぜか頬を紅潮させて少し興奮気味である。

私は部屋の前に着くと、琴吹さんに待ってもらうよう言った。

「部屋を片付けるから、少しの間ここで待っててくれ。すぐに終わる」

なるべく中を見られないように彼女の視界を遮りつつ、私は大して物がない四畳半に入った。
ひとまず卑猥図書を暗部に押し込み、散らかっているあれこれを隅っこに放り投げた。

そして私は琴吹さんを招き入れた。



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紬「四畳半に住むのが夢だったの~」#前半
[ 2011/06/19 22:05 ] クロス | 森見登美彦 | CM(0)

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