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梓「ただより高いものは無い」#前編 【ホラー】


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梓「ただより高いものは無い」#前編
梓「ただより高いものは無い」#後編




1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:24:05.17 ID:BqHnIEvz0




……
………

――つまり。

私は、
やっぱりどこか、
皆に嫌に思われている面があったということで。

何よりも恐れていたその事実が、
誰よりも言われたくない人の口から明るみに出た時に、
私は。


唯「……あなたなんか、入部してこなければよかったのに」


私は――

………
……






10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:28:05.00 ID:BqHnIEvz0



梓「――プチ旅行、ですか?」

唯「そうそう。電車で一時間か二時間くらいのところにね、ちょちょいっと」

夏の暑さも忘れかけてきたある日のこと。
目の前の先輩二人――唯先輩とムギ先輩は、受験生だというのにそんなことを言い出した。
そんなこと、すなわち「二泊三日のプチ旅行に行かないか」と。

紬「私と唯ちゃんがね、福引で当てちゃって」

唯「引いたのはムギちゃんだよ」

紬「でも福引券は唯ちゃんのだから」

話を聞くと、どうやらちょっとばかり有名な旅館に二泊できるチケット(有効期間は今年中)
を一発で当ててしまったらしい。相変わらずいい運をお持ちですね、ムギ先輩。
で、今年中まで有効とはいえ受験生の先輩達は冬休みに遊ぶのはあまりよろしくない。
だから秋休み――と勝手に呼んでいるほんのちょっとの連休――に行こう、となったわけだろう。

梓「はぁ……でしたらお二人で行ってくればいいじゃないですか。それとも三人までとか?」

紬「ううん、ペア招待。でも私、今年の秋休みはあまり暇な時間が無くて……
  そもそも券は唯ちゃんのだし、ってことで唯ちゃんに譲ったの」

唯「譲られたからにはあずにゃんを誘おう、とね」

梓「……先に憂を誘ってあげてくださいよ」

唯「もちろん誘ったよー。ねームギちゃん?」

紬「ねー♪」



13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:31:20.99 ID:BqHnIEvz0

……そこでムギ先輩に同意を求めるってことは、恐らくムギ先輩にも同じように釘を刺されたんだろう。
もっとも、それに唯先輩が何と答えたかまではわからない。
本当に私達に釘を刺される前から憂のことを考えていた可能性だってもちろんある。
そのくらいには仲良し姉妹だということは私だって身をもって知っているから。

だから、結局はここまでは特に意味の無いやり取り。様式美。
それでも理由をつけるなら、私が憂に遠慮している節がある、ということくらいか。
私と同じように唯先輩を慕っていながらも、私と違って長い間ずっとそばで唯先輩を支えている憂に対して。

でも、憂という素晴らしい友人は唯先輩だけでなく、私の事もちゃんと想って行動してくれるものであって。

唯「あずにゃんを誘えば、って言ってくれたのは憂なんだよ」

梓「そう…ですか」

紬「だから何も気にせず、唯ちゃんに付き合って欲しいんだけど…」

唯「ねー? 行こうよあずにゃん」

梓「じゃあ…お言葉に甘えさせてもらいます。ありがとうございます、唯先輩、ムギ先輩」

……どこか憂やムギ先輩に気を遣われたような、そんな違和感を感じなかったこともないけれど。
それでも、私だって嬉しくなかったわけじゃない。誘って貰えたのだから光栄なこと。素直に甘えておこう。

……受験生なのにそんなことしてていいんですか、という言葉は電車の中まで取っておくことにする。

唯「じゃあ一時間後に出発だからね!」

梓「いや秋休みまだですし。あと一週間ありますし」

唯「あずにゃんと旅行なんて楽しみで夜も眠れないよー!」

梓「あと一週間寝ないつもりですか、すごいですね唯先輩」



14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:35:35.19 ID:BqHnIEvz0



――そうして寝不足で迎えた一週間後。秋休み開始日。

唯「はいあずにゃん、プレゼント」

梓「……?」

電車内で、小さめの紙袋に包まれた軽そうな何かを私に差し出す唯先輩。何だろう?

梓「プレゼントって…今日何かありましたっけ?」

唯「んー、二人っきりで旅行できる素敵な日だよ、今日は。そんな日にはプレゼントが必要なのです」

梓「……相変わらずよくわからない理屈ですけど、ただ貰うのは何か悪いですよ」

唯「いーのいーの、たいした値段じゃないし。
  それにプレゼントを受け取るということはその場で着けてみることが半ば義務だから!」

梓「じゃあ受け取りません」

唯「ああん、大丈夫だって! そんなに恥ずかしがるようなものじゃないし!」

平沢家の感覚は信用ならないけれど、実際小さめの袋に包まれているしそこまで目立つ物でもないのだろう。
それに、よほどの物でない限り、プレゼントを拒むというのは相手の好意を無碍にする行為。
少なくとも嫌いではない相手に対してそんな事が出来るほど私は冷たく在れない。
……さっきのはジョークといいますか、その場のノリといいますか。うん。
とりあえず、唯先輩が取り繕っているうちに受け取ろう。悲しい顔はさせたくない。



18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:40:58.59 ID:BqHnIEvz0


梓「……まぁ、中身次第ですけど。開けていいですか?」

唯「むしろ開けてください!」

梓「はいはい……」

セロハンテープ一切れで止められただけの包装を丁寧に剥がし、中身を取り出す。
まぁ、受け取った時の音で中身は大体予想はついてしまっていたのだけど。

唯「はい! 猫ちゃんにぴったり、鈴付きチョーカーです!」

梓「………」

唯「無言で袋に戻さないで!」

梓「じゃあ聞きますけど、これを首につけろと?」

唯「他に何があるの?」

梓「何も無いから却下しようとしてるんですよ」

唯「えぇー!? 名実共にネコちゃんできっと可愛いよ?」

梓「それは 恥 ず か し い と言うんです! 首輪みたいじゃないですか!」



22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:45:51.10 ID:BqHnIEvz0


唯「でもでも、これであずにゃんがどこに行っちゃってもわかるはずだよ!?」

梓「大丈夫ですよ、はぐれたりなんてしません」

唯「あずにゃんはそのつもりでも何があるかわからないじゃん。私が見失う可能性もあるんだし!」

梓「偉そうに言うことですかそれ……」

本当にこの人は先輩なのだろうか。と、こうして呆れるのも何度目かはわからないくらいだ。
でも、明らかに取って付けたような理由とはいえ私の事に気を回してくれたのは少し嬉しい。
どんな時でも見つけてくれるというのなら、多少の恥なら我慢して
おまじない程度に信じて付けてみてもいいかな、という気持ちにはなる。

プレゼントをあらためて袋から取り出し、眺める。
銀色の綺麗な鈴と、それをぶら下げる小さな鉄の輪。
そこに黒いリボン――ではなくバンドのようなものを通してあり、首に回して後ろで留めるのだろう――

梓「ってこれマジックテープじゃないですか! 雑!」

唯「実はそれ100均で買ったんだよね」

「たいした値段じゃない」ってカッコつけたのかと思ったら本当に大した値段じゃなかったようで。
いや、もちろんプレゼントは値段じゃないってわかってるんですけどね。
大切なのは唯先輩の心遣いだってわかってるんですけどね。

でも、その、100円のものにあんなにマジメに逡巡してしまったというのは、
なんか、こう、ちょっと落ち込みますよ。勿論嬉しくないわけじゃないんですけど!



24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:50:14.75 ID:BqHnIEvz0


唯「まぁそういうわけで安物だから遠慮しないで貰っちゃってよ」

梓「はい……まぁ安物とはいえプレゼントですから、ありがとうございます、一応」

唯「ホントに一応って感じだね」

梓「恥ずかしいことには違いないですし」

唯「マジックテープじゃなくてリボンか何かにしよっか。電車降りたら探してみよ?」

梓「気を遣わせてしまってすいません」

唯「いいよいいよ。あずにゃんのためだもん」

梓「どうせならもっと根本的な問題に気づいて欲しかったですけどね」

唯「ほえ?」



26 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:53:10.79 ID:BqHnIEvz0



――電車を降り、駅の構内のお土産屋さんのような小物屋でリボンを買い、銀の鈴をぶら下げる輪に通す。
そして……それを左手首に結びつける。

唯「えー、なんで首につけてくれないのー?」

梓「恥ずかしいって言ってるじゃないですか……これでもちゃんと鈴は鳴るし、見つけてくれますよね?」

唯「うっ……も、もちろん。そうだね、別に首じゃなくても音がすれば安心だよね……」

……私は常識で判断したはずなのに、
何故こんなにも罪悪感に襲われるのだろう。悪気のない相手というのは時にやりづらい。
でも、裏表のない人というのはそれだけで信頼に値する、とも言える。
少なくとも私は嫌われてはいない。それだけで安心できる。

……嫌われたくない、と思ってしまう程度には、私はこの先輩のことを大切に思っている。
そして罪悪感を感じる程度には、この先輩との時間を大切にしたいと思っている。
もうすぐ遠くに行ってしまう、この先輩との時間を。

極力考えないようにしているけど、夏に実感して以来、『孤独な未来』への不安はいつも私を蝕んでいる。
でも、それは表に出してはいけない。私のためにも、先輩たちのためにも。
だから考えないようにしている。もちろん今日も、そんなことなんて考えずに遊び倒すつもりで来た。
せっかく誘ってもらえたんだから楽しまないと申し訳ない。

梓「……ほら、行きますよ唯先輩! まず何か食べましょう、早く早く!」

唯「おお、あずにゃんがテンション高い……しょうがないなぁーもう!」



28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/22(木) 23:57:52.29 ID:BqHnIEvz0



――どうにか空気も持ち直し、そのまま駅の構内の軽食屋で遅い昼食を摂る事に。
連れてきてもらった分、ということで昼食代くらいは私が出したかったのだけど、

唯「その理屈はおかしいよー。別に私があずにゃんより多くお金を払ったわけじゃないんだし」

確かに、宿泊費は二人とも無料だし、電車の切符はそれぞれで買ったし、
むしろ100円の鈴に通すリボンの値段がお土産屋さん価格で
少し上回った私のほうが多くお金を使ってはいる。

梓「ですけど……なんか悪いですよ」

唯「あずにゃんは真面目さんだねぇ。じゃあ気持ちかカラダで返してくれれば!」

梓「そういうノリは困るんですけど」

唯「身も蓋もない…」

とはいえ、この良くも悪くもお金に執着しない先輩には
恩義をお金で返すのは確かに何か間違ってる気もする。

むしろ、そういう形の恩返しなんて求めていないだろう。もっと言うならば気持ちを踏みにじりかねない。
……だからといってカラダで返す、なんて笑えないジョークに乗るつもりも無いけど。
どこかで気持ちを返せるような物を買って贈ろう。それがきっと一番。


――そう思っていたら、そのチャンスは意外と早くやって来た。



32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:02:07.83 ID:aH5EQ7QI0



――駅から一歩出たところ、要するに駅の正面入り口の真横で、
言い方は悪いが……みすぼらしい格好のお婆さんが、ござを広げて小物を売っていた。
駅の中にも小物屋さんはあったのに、と思ったけれど、値段はそちらより良心的だ。当然といえば当然だけど。

でも見る限り一つも売れていないようだ。
というか、きっと皆避けているのだろう。お婆さんの外見が外見だから。

唯「わー、なんかいろいろあるー! ほらほら、あずにゃんもおいで!」

……この人以外は。

梓「……はいはい…」

正直言うと私も関わりたくは無かったけれど、この先輩を見ているとそんな考えを抱いた自分を責めたくなる。
外見で人を判断しない。臆せず人と関わることができる。
それは間違いなくこの人の長所で、長所というのは見習うべきものなのだから。

広げられている商品をいろいろ見てみると、
意外……といっては失礼かもしれないが丁寧な作りの物ばかりで、
値段と照らし合わせると破格と言って差し支えない。誰一人見向きもしないのが実に勿体ないほど。

いや、見向きされたら駅内の小物屋さんが商売上がったりになるだろうし、これでいいのかもしれないけど。
唯先輩も私と同じように出来を非常に評価しているらしく、
身を乗り出してもはや凝視といったレベルで観察している。

私も唯先輩ほどではないにしろ、
他者からの目なんて忘れるくらいには熱中して様々なアクセサリーに目を走らせて――

梓「あ……」

そんな中の一つ、金に彩られた三日月のあしらわれたネックレスに目が留まる。
値段も値段だし恐らくメッキだろうけど、不思議と輝きを放っていて。
私の顔が綺麗に反射して映るほどに磨かれていて。

私はしばし、それに見入ってしまった。
いや、むしろ私が魅入られた、とも言えるかもしれない。それほどに目が離せなかった。



34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:08:54.38 ID:aH5EQ7QI0


……そして、どれほど経ったかはわからないけれど、そんな時間は唐突に終わりを告げた。

唯「んー? あずにゃんが見てるのコレかな? きれーい」

唯先輩がそのネックレスをひょいっと持ち上げてしまった。
私の視線はそれに追われながらも、
でも唯先輩の言葉自体は右から左へ抜けていく程度にはまだ魅入られていて。

唯「……おーい、あずにゃーん? おーーい」

梓「…あ、すいません。えっと、何ですか?」

何度呼びかけてくれたのだろう、と思いつつも、変に思われたくないのでそこは問い返さない。
いや、私が唯先輩の言葉を聞き流すあたり、既に変なのは間違いないんだけれど。
さすがの唯先輩も少し怪訝な顔をしていたので、無理矢理話題を持っていくことにする。

梓「唯先輩も、それ綺麗だと思います?」

唯「え? うん、あずにゃんがずっと見てたから手に取ってみたけど、確かに綺麗だね。買うの?」

梓「いえ、私より唯先輩に似合うと思いますよ」

唯「そうかなぁ? でも、なんか悪いよ。先に見つけたのはあずにゃんなのに」



36 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:13:44.89 ID:aH5EQ7QI0


梓「私には、これがありますから」

言って、左手を小さく掲げる。
左手首に光る銀の鈴が小さく音を立てると、唯先輩は嬉しそうに顔を綻ばせる。
……あー、恥ずかしい事言っちゃったかな……

唯「じゃあ、私が買っていい?」

梓「はい。いい買い物だと思いますよ、それ」

唯先輩に似合うだろうとは素直に思うし、私も不思議と目が離せなかったし、買わない選択肢はなかった。
アクセサリーとの運命の出会い……なんて少し思い上がってしまったくらいだ。この時は。

唯「おばちゃん、これちょうだい!」

婆「   」

問われたお婆さんは口をパクパクと動かし、値札を指差す。
この人、もしかして…?

唯「……?」

……首をかしげる唯先輩を尻目に、素早く財布から硬貨を取り出してお婆さんに手渡した。

梓「はい、行きましょうか、唯先輩」



41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:19:21.93 ID:aH5EQ7QI0


唯「え? え? あ、うん、あずにゃんお金……」

梓「いいですよ。プレゼントということで。連れてきてもらったのと、これのお礼です」

唯「い、いいの? ありがとー!!」

鈴の音にお礼を言いながら満面の笑みで飛びついてくる唯先輩。
街中でそういうノリをされるのは困るけれど、だからといって避けるわけにもいかず。
そして、何よりその笑顔を見ていると抗う気も失せてしまうというもの。
……うん、やっぱりこういう形で返すほうがよかったんだ。私の判断は間違ってなかった。

梓「っていうか秋とはいえくっつかれると暑いんですが」

唯「えー、いいじゃん。あずにゃんの真心で心は暖かいんだから次は身体だよ!」

梓「 あ つ い って言ってるんです! ……あと、唯先輩、それ」

唯「うん?」

梓「……プレゼント、なんですから」

唯「……つけていい?」

無言で頷くと、ようやく離れてくれた。
できれば問い返さないで欲しかったものだけれど。全く、デリカシーのない……



44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:24:36.02 ID:aH5EQ7QI0


唯「よいしょ、っと……」

……デリカシーはないけれど、首の後ろに手を回してモゾモゾやる唯先輩は、ちょっと色っぽかった。
って何を考えてるんだ私。

唯「……よし、どうかな、あずにゃん」

梓「似合ってると思いますよ」

唯「感情がこもってなーい」

直前に考えていたことがアレですからね……極力感情は殺しましたよ。
とはいえ似合ってると思ったのは事実。
まだギリギリ軽装の秋だからこそ、胸元に光るワンポイントは輝けるものだから。
どことなく、買う前より輝きが増したようにも見えるほど。

唯「…まぁ、いっか。あずにゃんが選んでくれたんだもん、似合ってなくても外さないよ」

梓「似合ってますってば、本当に」

唯「はいはい、もうどっちでもいいですよーだ。こういうのは最初が肝心なんだからねっ」

梓「うっ……」

……すごく勿体ないことをしたような気持ちになる。
気持ちの流れ的に仕方のないことだったとはいえ、後悔しないかと言われれば疑問が残る。



47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:28:44.55 ID:aH5EQ7QI0


そんな私を一瞬だけ盗み見て、唯先輩は話題を変えた。

唯「……んふふ。じゃあ行こっか、あずにゃん」

梓「……そうですね」

きっと見抜かれているのだろう。ごく稀に、本当に稀に、この人は真実を見抜く。
誰もが気づかないことを、何でもないようなことのように容易く。実にズルくて、いやらしい。

……そんないやらしい先輩は、
歩を進めようと提案したにも関わらず、何故か今は私の隣で硬直しているけど。

唯「……えっと…」

梓「まさか行き先がわからないなんてベタなオチはないですよね」

唯「ちゃんと調べてきたもんねー。えっとねー…」

……正直、そんなオチも想定してました。ごめんなさい。ちょっと見直しました。
まぁ「全部任せんしゃい」という唯先輩の言葉に甘えて何も調べなかった私は
実際そんなオチがついても責められない立場なのだけれど。

唯「えっと、こっからバスの……モニョモニョ…行きのバスに乗って――」

梓「……はい?」

携帯電話を開いてにらめっこする唯先輩。
すごいしかめっ面かと思ったら、次は情けなく眉尻を下げた顔でこちらを見て。

唯「……漢字読めない」

梓「………」



48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:34:40.12 ID:aH5EQ7QI0


……まぁ、仕方ないことかもしれない。
電車で一時間強も揺られて来たこの街は、知らない街といっても過言ではない。
外出するよりは家でのんびりギターを弾いていることが多い私達なら尚更。
アルバイトもしてないから遠出する余裕もないし。

梓「……漢字さえわかれば乗れないこともないですけど…念の為です、駅員さんに尋ねてきましょうか」

唯「はい……ソウデスネ…」



――駅に戻り、駅員さん達に乗るべきバスを尋ね、更に念のため地図を買い。
バスを乗り継いで更に歩いて少しだけ山の方に入り、ようやく件の旅館へ辿り着いた頃、ちょうど日が暮れた。

梓「……要するに二泊三日の初日は何も出来なかった、と」

唯「……ごめんなさい。こんなに遠いなんて思いませんでした」

梓「そしてそれは転じて二泊三日の最終日も何も出来ずに終わる可能性が高い、と」

唯「本当にごめんなさいぃぃ!!」

梓「いえ、まぁいいんですけどね。
  立地条件のせいなら仕方ないですし、来るまでに面白そうな店はいくつかありましたし」

それに今日が潰れたのは「一時間ちょっとで着くくらいの距離なら集合もゆっくりでいいよね」と言いつつ
しっかり寝坊かました唯先輩のせいでもある。
最終日は私がちゃんと起こせばきっと少しは時間は作れるだろう。

更に言うならこんなに遠いとは私も思ってなかった。
目的地はテレビでCMやるくらいには有名な旅館なのだが、
そのCMでもこんな奥地にあるなんて言ってなかったし。



51 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:40:10.16 ID:aH5EQ7QI0


唯「……ごめんねぇ…」

梓「…もういいですって。それよりも…もっと別の問題がありますよ」

唯「……そうだね…こっちもあずにゃんに謝らないといけないかも…」

梓「いや…これは流石に唯先輩は悪くないです」

眼前に佇む、件の有名な旅館。
……否、有名なはずの旅館。有名で、繁盛していると聞いていたはずの旅館。
一応、情報どおりの木造平屋の建築物ではある。旅館の名前も、確かに聞いていたものと一致するのだけど。

唯「……オンボロやないかーぃ…」



――唯先輩が思わず漏らしてしまった本音通り、外観はとても綺麗と呼べたものではなく、
木造の家屋にツタは這い、塗装は剥げ、看板は傾き、
これでもかと言わんくらいにイメージ通りのオンボロ旅館。

しかし意外にも一歩門をくぐってみれば言うほどでもなく、内装は綺麗だし従業員も沢山いて皆いい人そうで。
そのギャップが人気の秘訣なのかもしれない、と私達は納得することにした。
ただ、ここでまた問題が発生するのが私達らしいというか、唯先輩らしいというか。

員「申し訳ありません、只今満室でございまして……角部屋しか空いていないのですが」

唯「え~」

評判通り繁盛もしているらしい。あんな外観で。



53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:45:35.67 ID:aH5EQ7QI0


梓「私達が来るのが遅かったからでしょうに……すいません、店員さん。その部屋で充分です」

員「申し訳ありません」

あくまで丁寧な従業員さんに唯先輩がチケットを渡し、部屋に案内してもらう。
角部屋という通りかなり奥まった所にあったけれど、
トイレは部屋にあるし食事も届けてくれるとのことなので不便なのはお風呂くらいだろう。

員「では、失礼します」

唯「ありがとうございましたー」

梓「ありがとうございました」

唯「……さて!」

……従業員さんが去ったのを見届け、唯先輩がなにやら目を輝かせた。
イヤな予感しかしない。

梓「…何を始めるつもりですか?」

唯「掛け軸や絵を一個一個捲って裏のお札の有無を――」

梓「一応有名旅館なんですしやめましょうね!?」



55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:50:12.19 ID:aH5EQ7QI0



――その後、昼食が軽いものだったせいか、荷物を片付けている最中で唯先輩が泣き言を言い出した。

唯「おなかすいたー…」

梓「まぁ、確かに早い家なら夕食食べていてもおかしくない時間ですけど……」

唯「おなかすいたー!」

部屋の真ん中で大の字になって寝転んで動かない。まったく、本当に子供みたいな人だ。
ちなみに荷物の片付けなんていっても荷物と呼べるほどの大仰なものはほとんど持ってきていない。
二回分の着替えを手頃な大きさのバッグに入れてそれぞれ持ってきただけだ。
要するに、たったそれだけの荷物を片付けることもせずにこの人は寝転がっている事になる。
というか二人分私が片付けた。どれだけ堪え性が無いんだろうか。

梓「はぁ……じゃあ食事をお願いしてきますから、せめてこう、もっと端っこにいてくださいよ?」

唯「えー、私も行く!」

梓「片づけを私にさせたくせに今起き上がったら怒りますよ?」

唯「うっ……いや、あれはその、働くあずにゃんを見ていたかったと言うか…」

梓「そんなくだらない理由で押し付けたんだとしたらもっと怒りますよ?」

まぁ実際のところは別に重労働でもないんだし怒るつもりは無いけれど、
それでも何でもかんでも人に押し付けるのはいただけない。
私はともかくとして、そろそろ憂の気苦労は減らしてあげたいし。
……いや、憂も憂で唯先輩の世話をするのを純粋に楽しんでるフシがあるからなぁ
……余計なお世話なのかな?



56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:55:20.13 ID:aH5EQ7QI0


唯「え、えっと、それよりあずにゃん!」

梓「はい? 何ですか?」

唯「わ、わざわざ行かなくても内線みたいなもので呼べたりしないのかなぁ?」

梓「あー、言われてみれば確かにあってもおかしくない――」

と唯先輩の必死の話題逸らしに乗ってあげていると、ブザー音のようなものが部屋に響いた。
どうやら唯先輩の言う通り内線はあるらしい。部屋を見渡し、入り口のすぐ傍の壁にあった受話器を取る。

梓「はい、もしもし」

員『あ、失礼します。そろそろお食事の方お持ちいたしましょうか?』

梓「…は、はい、それじゃお願いしてもいいですか?」

員『かしこまりました。少々お待ちくださいませ』

……なんというタイミング。

唯「あずにゃん、何て電話?」

梓「ご飯持ってきてくれるそうですよ。よかったですね」

唯「ホント!? やったー! どんなのだろうね?」

梓「どんなのでしょうね…」



58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 00:59:38.28 ID:aH5EQ7QI0


唯「海に近い旅館なら海の幸がメインって聞いたけど、
  ここはどっちかといえば山に近いし、山の幸なのかなぁ? あー楽しみ!」

梓「………」

……唯先輩は盛り上がっているけど、私はどこか薄気味悪さを覚えていた。
まるで私達の行動を見ているかのようなこのタイミングに。

唯先輩がお腹を空かせているのを見抜いたかのように。
唯先輩が内線の話をしたのを聞いていたかのように。
私がフロントまで出向こうとしているのを見ていたかのように、タイミングとしては完璧すぎた。

……考えすぎだよね。これが有名旅館の一流の接客なんだよね。



――ほどほどに山の幸の活かされた夕食を食べ、寝転がる唯先輩を起こし、お風呂へ向かい。
一応パジャマは持ってきていたけれど
浴衣の貸し出しもしているとの事なので、今日は浴衣を借りることにして。
お風呂上がり、唯先輩の「浴衣に下着はつけない」とかいうセクハラ
――もしかしたら本人はセクハラではなく素で信じていたのかもしれないけど
――を黙殺して着替えて部屋に戻った。

唯「ふぃー、いい湯だったねー」

梓「山に近いからですかね、静かでいい露天風呂でした」

唯「虫がいないのが不思議だったね!」

梓「そういうこと言わないでくださいよ…明日気にしちゃうじゃないですか」

唯「あずにゃんに近づく悪い虫は私が追い払ってあげましょう」

梓「はいはい…」



59 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:02:03.72 ID:aH5EQ7QI0


馬鹿馬鹿しい会話に終止符を打つように立ち上がって部屋の窓を開けてみる。
山特有の澄んだ冷たい空気が流れ込んできて私の髪を揺らす。
お風呂上がりなど、縛っていない状態だとこういう時に少し鬱陶しい。
……空気も冷たいし、やっぱり窓は閉めよう。唯先輩が風邪ひいたら大変だ。

唯「そういえばあずにゃん、鈴は?」

梓「ちゃんとポケットに入ってます。大丈夫ですよ、無くしたりしません」

唯「そーじゃなくて、つけてくれないの?」

梓「……いや、もう夜ですし、あとは寝るだけですし、つける必要ないじゃないですか――」

と言いつつも、浴衣の唯先輩の胸元に光る月を見ると嬉しくなる反面申し訳なくなる。
そんなに嬉しかったのだろうか。
私も嬉しくなかったといえば嘘になるけど、四六時中つけておくほどには素直になれない。

梓「……寝るときは外さないと危ないですよ」

唯「えー、やだー」

梓「私はつけませんからね。寝ている時に外れて無くしたりしちゃったらそれこそ申し訳が立ちませんし」

唯先輩が喜んでずっとつけてくれているのは嬉しいけれど、
私も同じようにつければ唯先輩もきっと喜ぶのだろうけれど。
それでも私には恥ずかしいし、無くすのを恐れているのもまた私の本音だ。



60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:05:48.79 ID:aH5EQ7QI0



……とはいえ、ちょっとだけ唯先輩を否定するような言い方になってしまい、返答が怖かった。
けれど当の唯先輩は何故か目を輝かせていて。

唯「申し訳って……たった100円の物に
  そんなに真剣になってくれるなんて、やっぱりあずにゃんはいい子だねー」

梓「ね、値段なんて関係ないじゃないですか!
  貰い物を無くすなんてそんな不義理なこと出来ないってだけです!」

唯「いい子いい子ー。よしよし」

梓「だから何かにつけて抱きつこうと、撫でようとしないでくださいっ!!!」



――せっかくお風呂に入ったのに唯先輩を押し返すのに少しだけ汗をかいてしまい、
何と言うか、これ以上起きているべきではないのかもしれないという結論に至った。

梓「はぁ…布団敷きますか……」

唯「えー? 夜はこれからだよー」

梓「夜更かししてまですることは何もないでしょう」



62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:12:46.83 ID:aH5EQ7QI0


唯「……コイバナ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ枕投げ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ――」

梓「いや、もういいですから寝ましょうよ」



63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:17:01.34 ID:aH5EQ7QI0


まだ時間は早いけど、意外にも身体に疲れは溜まっている。
いろいろバタバタしたし、慣れない地でもあるし、考えてみれば当然ではあるけれど。
問題は唯先輩をどうやって寝かしつけるか。憂に聞いてくるべきだったなぁ。

梓「っていうか唯先輩って早寝のイメージがあったんですけどね」

唯「んー、まぁ否定はしないけど、あずにゃんと二人っきりなんだもん、早く寝るのはもったいないよ!」

梓「でも特にする事もないでしょう」

唯「そうだけど、もったいないったらもったいないよ!」

梓「……夜更かししたせいで寝坊して、
  明日一緒に遊びに行ける時間が減るのとどっちが勿体ないと思います?」

唯「じゃあ寝よっか! おやすみあずにゃん!」

梓「早っ!」

ちょろい人だった。っていうか布団敷くの手伝ってくださいよ……



65 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:23:30.47 ID:aH5EQ7QI0




梓「――ん、んっ…?」

……何時頃かわからないけど、不意に目が覚めた。やっぱり少し早く寝すぎたようで。
とりあえず枕元を探り、財布と携帯電話、そしてそれに結び付けてある鈴を確認する。
なんだかんだで私も現代っ子、携帯電話は常に持ち歩くだろうから、
という理由で朝の着替えまでは結び付けておくことにしたのだ。

携帯電話を手に取ると、またチリンと音がする。
その音を聴くたび嬉しくなるけど、隣で寝ている唯先輩を起こすわけにはいかない。
鈴を手の平で包み込んで音を殺し、折りたたみ式の本体を開く。

梓「……二時半…うわぁ、丑三つ時…」

草木も眠る丑三つ時。意外とその時間帯については細かいところで諸説あったような気もするけど、
私は少なくとも午前二時前後は間違いなく含まれるんじゃないかな、という程度の認識にしている。
ともあれ、そんな時間に目覚めてしまったのはちょっとイヤな気分になるけれど、
もう一眠り出来そうな程度には頭もぼーっとしている。大丈夫だろう。

梓「……その前にトイレ行っとこ…」



――トイレから戻ってくると、
隣の、窓際の布団で寝ている唯先輩が月明かりに照らされているのが目に入った。

梓「………」

実は寝る前に「一緒に寝よう!」とか言い出すかと思ったけど案外そんなことはなくて、
あっさり布団に入って寝てしまったことに実は拍子抜けしていたりもするのだけれど。
いや言われても勿論断るのだけれど。それでも予想が外れるとちょっと悔しいというか。
意外と私はこの人をあまりわかっていないのかな、と思いたくなるような。
それとも私は『何か』から目を背けていて、勝手な唯先輩像を押し付けているのかな、とか。
まぁとにかく、そういうよくわからないことを悶々と考えながら唯先輩を眺めていると、
胸元に光るものが目に入り。



67 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:28:02.89 ID:aH5EQ7QI0


梓「…もう、危ないって言ったのに…」

言いながらも、やっぱり嬉しくなる自分が抑えられなくて。
それもなんか癪だから、と自分の布団に潜り込んで。
それでもちょっとだけ昂ぶってしまった気持ちが寝付くことを許さなくて。
結局布団の中で何度も寝返りを打った挙句、枕元の携帯電話に手を伸ばし、鈴を指先で転がす私がいた。

「これじゃ名実共に猫みたいじゃないか」と頭を抱えるのと同時に、気がついた。気がついてしまった。


……隣の、気配に。


梓「…あ、お、起こしちゃいました? すいません」

唯「………」

梓「……唯先輩?」

気恥ずかしさ半分で取り繕うように身体を起こし、振り返るけれど、
当の唯先輩はボーっとしたまま私に視線を合わせずに。
でも無表情というわけでもなく、何かの『目的』を持ったような目をして立ち上がる。

唯「………」

梓「…あの…?」

私を一瞥すらせずに歩き出す。
私みたいにトイレかな? とも思ったけれど、
部屋の扉に手をかけたあたりでさすがに様子がおかしいと思い至り、
先刻まで弄っていた携帯電話をポケットに捻じ込んで後を追った。



69 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:35:40.11 ID:aH5EQ7QI0



梓「――唯先輩っ! 待ってください、どこ行くんですか!?」

唯「………」

梓「唯先輩っ!!」

唯「………」

梓「待ってくださいよ!! どうしちゃったんですか!?」

廊下をただ歩くだけの唯先輩に追いつくこと自体は容易だったが、引き留める事は難しかった。
呼びかけには全く応えないし、浴衣の袖を摘むくらいでは自然と振り払われてしまう。
思い切って腕まで掴んでも、力任せに振るわれると体格で劣る私には成す術もなかった。

……ダメだ、このままじゃ唯先輩がどこかに行ってしまう。そして、きっと二度と会えない。

私は予感めいたものを感じていた。
何故とか何処へとか、そういう事までは頭が回らなかったけれど、
行かせてはいけない。それだけは確信を持っていた。

唯先輩の正面に回り、腰に手を回し、踏ん張りながら全体重をかける。
そこまでしてようやく唯先輩の歩みは止まった。

梓「ッ……誰か! 誰か助けてください!!!」

動きを止めたはいいけど、それ以上の事は出来ない。
そう自覚していた私は、夜中だというのに声を張り上げて助けを呼ぶ。
誰かが出てきて、唯先輩を押さえつけてくれることを期待した。
多少手荒だけど、このまま私と唯先輩が面と向かって押し合ってもきっと私が先にバテてしまう。
唯先輩も決して運動が出来る方ではないはずだけど、今の唯先輩はきっと自身の意識の外にいる。
疲れとか顔見知り相手の遠慮とかには無縁だろうから、
より確実な方法を採って動きを封じなければならない。



71 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:42:34.15 ID:aH5EQ7QI0


だから叫んで人を呼んだ。なのに……

梓「なんでっ……なんで誰も出てきてくれないの!?」

出てきてくれないどころか人のいる気配さえしない気がする。
私達の居た場所は角部屋だったけれど、
唯先輩を引き留めようとあれこれしている間に確実に数部屋は通り過ぎた。
従業員さんも満室だと言っていたし私も私なりにだいぶ大声で叫んでいるのに、
顔を覗かせてくれる人がいないどころかどの部屋からも物音一つしないなんて!?

唯「……か……と…」

梓「!?」

押し合うだけで必死な私の耳に届いた、微かな呟き。
力を抜くわけにはいかないけれど、
どうにか意識だけはそちらに集中させて、聞き届けようとする。すると。

唯「…いかないと…」

梓「っ!?」

どこかに向けたその呟きは、私の悪い予感を肯定していて。
予感を現実にするわけにはいかない。唯先輩と二度と会えないなんて……嫌すぎる。
何が何でも行かせるわけにはいかない、と力を込めなおした時、感じ取ってしまった。


――後ろに、何かいる。



75 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:49:02.68 ID:aH5EQ7QI0



恐る恐る、振り返る。やめておけばいいのに振り返ってしまう。
怖い。でも怖いからこそ見ておかないと安心できない、という矛盾。
怖いものだからこそ、目を向けずに放置するのは余計に怖い。
人の行動を真っ先に縛ってしまう『恐怖』という感情に動かされた私が、肩越しに目にしたものは。

梓「ッ!?」

……私の背後にいた『それ』は、廊下の窓から差し込む月明かりに蒼く照らされて。

……それでもなお真っ黒に染まった『影』だった。


――『影』は、影であるはずなのに人の形を成していて、
顔は無いのに、その口元は確かに釣りあがっていて。

梓「ひいっ!?」

2メートルくらいは離れているにも関わらず、その姿に私は恐怖してしまい――力を抜いてしまう。
その隙を逃がさなかった唯先輩が力を込めて私を押し返す。
力負けしてバランスを崩されてしまった私は、あとはされるがまま。
そのまま唯先輩に突き飛ばされ、私は受け身も取れず無様に背中から廊下に転がることとなった。

梓「あうっ……!」



76 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:53:56.70 ID:aH5EQ7QI0


そして、気づく。
唯先輩に突き飛ばされた。誰にも暴力を振るわない先輩に、そういうことをされたという事実。
それはそれなりにショックのはずだけど、今はそれよりも考えることがあり。
実に、いろんなことがあり。

背中の方に突き飛ばされたということは、きっと今、私のすぐ後ろには『影』がいて。
唯先輩は、きっとそれに向かって進んでいて。私はもう、それを止めることはできなくて。
あの『影』が唯先輩を誘っているのだとしても、そんなオカルト的なモノに対抗する手段なんて、私には無くて。
もしかしたら今すぐにでも、後ろの『影』が私に何か危害を加えようとしているかもしれなくて。
身体が震えて、動かなくて。
怖くて。
怖くて。
もう、どうしようもなくて。

――どこかで、小さな鈴の音を聴いたような気がして。

それがポケットから落ちた携帯電話に手が触れた音だと気づくより先に、それを手に取っていて。
携帯電話より大事な鈴に、もう一度触れて。それの冷たさと暖かさを再認識して。

梓「……っ……イヤだ…!」

……どうしようもない。たったそれだけの理由で、
この場を…唯先輩を諦めるなんて絶対に嫌だ。この暖かさを永遠に失うなんて絶対に嫌だ!
そんな思いが沸きあがってきて、私は必死に思考を巡らせる。
唯先輩の方は押さえ込むのが精一杯でどうしようもない。

なら……唯先輩を『動かしているもの』をどうにかするしかない。
どうするのかなんてわからなくても、どうにかするしかない!
そう覚悟を決めて立ち上がりながら後ろを振り返る。そこにはもちろん、あの『影』が――



78 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 01:58:43.71 ID:aH5EQ7QI0


梓「……あ、あれ…? いない…?」

まさかと思い再び後ろを振り向くも、そこにも唯先輩しかいない。
そしてその唯先輩もなにやら私の手を……いや、私の手の中の鈴を、ぼーっと見ているようで。
もう一度周囲を見渡して『影』がいないことを確認してから、唯先輩に呼びかけながら鈴を鳴らしてみる。

梓「……唯、先輩…?」

唯「……あ、あれ? あずにゃん、どうしたの?」

梓「……唯先輩、ですよね?」

唯「え? 何言ってるの? あずにゃん」

まるで私がおかしいかのような言い方をされる。うん、間違いない、いつもの唯先輩だ。
そして同時にその反応は、おそらく……

梓「……唯先輩、今まで何してたか覚えてます?」

唯「へ? ……あれ、そういえばなんで私、こんなとこにいるの?」

梓「………」

まぁ、予想通り何も覚えていないようで。
それは同時に、私の予想通り、唯先輩の意思、意識がここにはなかったことを意味する。
つまりこれは、きっとあいつの…『影』の仕業。
あいつが唯先輩を操っている。あるいは乗っ取っている。憑依している。私はそう結論を出した。



80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 02:03:17.23 ID:aH5EQ7QI0


……いつか純から借りたオカルトマンガに、幽霊に取り憑かれた人の話があった。
マンガと現実をごっちゃにするなんて愚かしいと言われるかもしれないけれど、
唯先輩の行動とかを照らし合わせる限り、間違っているとは思えない。

ちなみにそのマンガでは……結局、取り憑かれた人は死んでしまった。
唯先輩も……そうなってしまうのだろうか?
こんな納得のいかない理不尽な事で命を落としてしまうのだろうか?

オカルトとかホラーとかは、
説明のつかない理不尽なものであるからそう呼ばれるのだと、理解はしているけれど。
それでも……そんなこと、認めたくなかった。

梓「……唯先輩、寝惚けて歩いてここまで来たんですよ? 私が何度止めても聞かないし…」

唯「そ、そうなの!? すごい寝相だね、私…」

梓「……まぁ、とにかく部屋に戻りましょう。まだ眠いですよね?」

唯「……たぶん。今何時?」

梓「……三時過ぎですね」

携帯電話を開き、確認する。揺れる鈴が何度も小さな音を鳴らす。
小さな、けれど優しくて暖かい音を。
これのおかげで助かったんだよね、私の心は。
そしてたぶん唯先輩も。こっちの理屈は全くわからないけど……

唯「鈴……」

梓「…はい?」



81 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 02:08:41.52 ID:aH5EQ7QI0


唯「大事にしてくれてるんだね」

梓「……まぁ、プレゼントですし、一応」

唯「私が居なくなっても大事にしてくれると嬉しいな」

梓「…っ……」

素早く目を逸らす。見たくない現実から目を逸らすように。
見たくないモノを見てしまった顔を悟られないように。

……なんで、よりによってこんなタイミングで、そんなことを言うんですか。
私が何よりも考えないようにしていたことを、そんな簡単に言ってのけるんですか。
私が何よりも恐れ、拒んで、振り払うために自分を奮い立たせていた感情を、頭から否定しちゃうんですか。

……ついさっきまで、私の前から居なくなろうとしていた人が、そんなこと口にしないでくださいよ……

唯「私がどんな道に進んでも、あずにゃんとは一年だけお別れだもんね」

梓「……留年の可能性もありますよ。唯先輩ですし」

唯「ヒドっ!? で、でもさわちゃんだし卒業くらいはさせてくれるって!
  「経歴に傷がつくのは嫌だ」とか言って!」

梓「…たぶん来年もさわ子先生が顧問でしょうから、私は滅多な事は言わないでおきます」

唯「どうかなぁ? 案外来年あたりに彼氏できて寿退職したりして。そしたら新しい顧問の先生は――」



82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/23(金) 02:13:31.43 ID:aH5EQ7QI0


梓「――唯先輩」

少し強めに、唯先輩のくだらない言葉を遮って。
実にくだらない、私にとって何の意味も無い言葉を聞いていたくなくて。

唯「……あずにゃん?」

梓「……早く寝ましょう。明日――いや、もう今日ですけど。
  いろんな所に行きたいですよね? 連れてってくれますよね?」

唯「う…うん、がんばる……けど…」

梓「じゃあ、早く戻りましょう」

唯「…あ……あずにゃん、何か…怒ってる?」

梓「……いえ、怒ってませんよ」

唯「……本当に?」

梓「本当ですよ」

……本当に微塵も、欠片ほども怒ってはいない。
怒りなんていうくだらない感情に身を任せられるほど、私の心に隙間はなかった。

……この人はわかってくれないのだろうけれど。




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