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澪『永遠にともに』#3 【非日常系】


http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1279012551/

澪『同じ窓から見てた空』

澪『永遠にともに』#1
澪『永遠にともに』#2
澪『永遠にともに』#3
澪『永遠にともに』#4




101 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 01:51:09.66 ID:lbnm/+LS0

なんて考えていたのだが、まあこうしてアホ猫の言う通りどうにかなってしまったわけだ。
恐るべし梓大先生。やっぱりあんたすげぇよ……。マジで……。

「先輩ベースやってたからですかね? すっごく低音の響きがいいですよ」

ほら来た。これがアホ猫流指導要領だ。

「ギターが良いからじゃないか? 特別意識はしてないんだけどな」

「そうですかね……? 私には腕が良いからにしか思えないんですけど……」

そう。褒めて褒めて褒めまくる。褒めて褒めて褒めちぎる。
こんなレクチャーのされ方をして伸びない奴が居るものか。
人間とは褒められて伸びる生き物なんだな……と、この一ヶ月でよく実感させられた。

「まあ私の場合コーチが良いからな」

「おっ? 分かってるじゃないですか~!」

逆に褒められてご満悦といった感じのコーチ様は
さっきからずっとハイポジションで私の演奏に味付けをしている。
二人ともこれだけ喋りながら手の動きが全くブレないのはひとえに特訓の成果だろう。

「あの~、お取り込み中申し訳ございません」

突然話し掛けられた私は思わず演奏を止めてしまった。
ノリノリで合わせていた梓もそれに倣って渋々手を止める。

「秋山様と中野様でしょうか?」

「は、はい。そうです」

その声の方に目をやれば、そこにはスーツ姿の男女三名が立っていた。

一人は先程式の司会を務めていた男性で、
もう二人は胸ポケットに『STAFF』と書かれた名札を銜えさせた女性と、
まだ二十歳くらいの若い女の子だ。
爽やか成年、脂の乗り始め、大人の階段登りかけ、といったところか。

「えっと、出番の確認と打ち合わせに参りました。本日はよろしくお願い致します」

なるほど、そういう事だったか。



103 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 01:58:59.04 ID:lbnm/+LS0

「あ、ブーケをキャッチされた方でしたか。あずにゃん様……でしたっけ?」

「いえ、中野様です……」

バツが悪そうな顔でがっくしと頭を下げる梓。それを微笑ましく眺める女性が言葉を引き継ぐ。

「私、この式のPAを担当させて頂く者です。どうぞよろしくお願い致します」

「そのアシスタントです」

そう頭を深々と下げる女性達。
……が、そのアシスタントと名乗り出た女性は視察をした直後、
何を思ったか目をまん丸にさせて梓の持つギターを凝視し始めたのである。
そしてそのヘッド部分を指さし、彼女は梓に問った。

「あ……あ……あ、あの!」

「は、はい?」

「そ、それひょっとしてD‐45ですか!?」

何だか挙動不審極まりなく見えなくもないが、後で梓に聞けば
少しギターに詳しい人間ならばこれはごく普通のリアクションなのだそうである。

「は……はい……。そうです……けど……」

そのあまりの勢いにたじろぐ梓。だがアシスタントの勢いは止まらない。

「凄いギター使ってらっしゃるんですね! こんな所でD‐45を見られるなんて感動です!
 私昔デュオ組んで路上とかやってたからマーチンなんて憧れてたんですよ!」

なるほど、この娘はどうやら生粋のアコースティック信者だったようだ。
ここまで興奮するのもまあ頷ける。

「専門学校行ってる時も誰も持ってなかったのに……ああ……凄い……」

そう言って繁々と梓の抱えるマーチンを眺めるアシスタントちゃん。



104 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:04:34.81 ID:lbnm/+LS0

「ん? 専門学校?」

梓が食い付いた。

「はい。私、ギタリストになりたくて駅前の専門学校に通ってたんですよ。
 でも才能が無いからって機材コースに回されちゃいました」

苦笑いでそう答えるアシスタントちゃん。その顔に向け、梓は言った。

「なんだ、じゃあ後輩になるんだ。私ギター科卒だよ。一応プロやってる」

「ええっ!? そ、そうなんですか!?」

そこでハッとした顔になった彼女は、思い出したかのように言葉のラッシュを繰り出してきた。

「じゃ、じゃあひょっとして……!卒業式ではぶっちぎりの首席卒業だからって
 特別表彰された直後に「つまらない一年間でした」と吐き捨てて出て行ったという
 あの伝説の卒業生、中野梓先輩ですか!?」

「後輩なら一つは褒めんかい!!!」

徐に目を尖らせて犬歯を剥き出しにする梓。
その襟首を掴んでアシスタントちゃんに飛び掛かろうとするアホ猫を抑える。

「お前一体どんな学校生活送ってたんだよ……」

「ち、違いますよ!」

必死に弁明を図ろうとする梓。

「卒業式は親が来て無かったからどうせならと思って笑いを取りにいったんです!」

「大切な席で何やってるんだお前は!」

「だって楽しくなかったんですもん……」

「ぶりっ子しても歴史は変わらん!」



107 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:09:58.09 ID:lbnm/+LS0

涙目でうぐぅ~……と何かを訴えるアホ猫。何処だ? 鯛焼きは何処だ!

「あ、それから下田先生に音作」

「に゛ゃあああああああああああぁぁ!!」

「きゃっ!」

「こ、こら! 後輩に噛み付くなこのタコ!」

「あ……あの~、そろそろ打ち合わせを……」

「に゛ゃああああああああああぁぁ!!」

「司会の人にも噛み付くなこのタコ!」

……まあそんなこんなありつつ、打ち合わせは結局五分程で終了した。
出番の時間とセッティングのタイミング。演奏後に使う退場ルート。
それからあとは梓が入念に音作りに関する注文を付けていた。

LRの音の振り分けがどうだとか、ミドルのロー強めで高音削りの柔らかめの音だとか、
ラインは自前のがあるからそれを使う……とか、
色々言っていた気はするが些か専門的すぎてついて行けなかった。

まあ、こういうのは専門家に任せておけば大丈夫だろう。
素人の物言い程意味が無くて空気の読めない物は無い。
私がこの打ち合わせに口を挟む事など、ラムネ瓶の中のビー玉くらい意味が無いのだ。
ここは黙って頷いておこう。

「では、本番よろしくお願い致します」

「はい、お願いします」

「え? あ……よ、よろしくお願いします!」

なんて思っていたら打ち合わせ自体が終わってしまっていた。……少しボーっとしすぎたか?

頭を下げて去っていく三人を見送り、私と梓もケースにギターを仕舞った。
招待客はそろそろ着席しておかなければならない時間だ。
披露宴用のドレスに身を包んだ唯を早く見たい。

「それにしても気になりますよね」

ん? 何だいきなり。



109 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:15:28.20 ID:lbnm/+LS0

「何が気になるって?」

「決ってるじゃないですか」

ニヤ~っと悪い微笑を浮かべて言葉を続ける梓。

「花嫁の手紙ですよ」

ああ……なるほどね……。

「あの唯先輩がどんな感動的な手紙を書くかと考えただけ期待大じゃないですか?」

どうせそんな事だろうと思ったよ。ロクでもない事しか考えていない時の顔だ。

「お前の言葉からは悪意と野次馬精神しか伝わってこないな」

はあ……と息を一つ吐いてみせ、披露宴会場の入口を目指して歩き出す。

「あっ、待ってくださいよぉ~! ……って、アレ?」

その声と共に背後から駆け寄る音が止まった。

「何だ? 床にねるねるねるねでも落ちてたか?」

「違いますって……ハンカチが無いんですよ」

「ハンカチ?」

そう言って身を漁りだす梓。
右ポケット左ポケットもう一回右ポケットから左ポケットと指が這い回る。
だが、ティッシュは出て来るもののハンカチは一向に出て来ない。



110 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:21:10.07 ID:lbnm/+LS0

「あれ~? さっきまであったのに~……」

「あの水色の奴だろ? さっき使ってたじゃないか」

「そうなんですよ……。おかしいな……」

漁れど漁れど出て来やしないハンカチ。
もうこうなったら!と梓が着ている服を脱ぎだそうとして私が強烈なツッコミを入れた時、
丁度天井に張り付いてあるスピーカーが鉄琴四つのチャイムを奏でたのだった。

「あ~あ~、式始まっちゃうぞ? もうティッシュでいいんじゃないか?」

「花嫁の手紙の時にティッシュで涙を拭う人なんていませんよ!」

「泣く事前提かよ……」

そんな事を言いつつ、何だかんだでトイレに戻ってみたり
ギターのケース内を探ってみたりと一緒に駆け回ってはみたのだが、
いい加減着席を終えていなければならない時間になっても
結局その青いハンカチは見つからなかったのである。

「ああもう……仕方ない。時間が無いから式の後で探そう」

「え~……」

あからさまに物憂げな表情を浮かべた梓ではあったが、
もう一度鉄琴四つのチャイムが鳴ったのを聞くと黙って頷いた。

「ちゃんと探してやるから式場でそんな顔するなよ?」

「……はい」

「ほら、行くぞ」

そう言って足早に会場へと向かう私の後を梓がトコトコとついて来る。
そんなに花嫁の手紙で泣くつもりだったのか? 相変わらずよく分からん奴だ……。

……まあ大丈夫だろう。料理でも食べて、酒でも飲めばそれなりにテンションも上がるだろうしな。
そしてすぐテンションを切り替えられるのがこいつの良いところだ。何も心配なんていらない。



111 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:26:30.94 ID:lbnm/+LS0

「まあ万一見つからなかったら新しいの買ってやるよ。ちょっと古そうだったもんな、アレ」

梓はその言葉に返答する事は無く、黙って私の後ろをついて来るだけだった。
そんな梓の態度に首を傾げつつも二人の歩くスピードは段々と早くなっていく。
そして私達が軽音部関係者で固められたテーブルに飛び込むように着席してすぐ、
幸せに溢れた披露宴は始まったのだった。


「よっ」

親族席で一人烏龍茶なんかを飲んでいるその娘の肩を叩く。

「ああ、どうも」

椅子から立ち上がろうとするのを手で制し、
直前まで花嫁の母親が座っていた席に失礼ながら腰を掛けさせてもらう。

「ほら、乾杯」

「あ、はい」

二つのグラスが奏でる高音。
キン、と甲高い音が鳴るのは二人の持つグラスの中身が少ないからだ。
その残り少ない液体を互いに口に注ぎ、空にしてテーブルに置く。

現在披露宴は花嫁のお色直し中で、それに伴いこの席の主は一緒にメイク室へと出張中である。
その他の親族席の面々は新郎に酒を注ぎに行ったり関係者各位への挨拶回り等で忙しい様で、
このテーブルは現在彼女と私が独占している。

「披露宴で烏龍茶か。よっぽど酒が飲めない人みたいだぞ?」

眉を八の字に曲げ、まさしく苦笑いといった所の彼女。
言わずともがなだが、彼女とは今朝銭湯帰りのタクシーで別れた憂ちゃんである。

「あの、梓ちゃんは?」

はぁ……と息を一つ吐き、軽音部関係者のテーブルを親指で指す。



112 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:31:41.35 ID:lbnm/+LS0

「あ……あれは私がわ」

「言い訳なんか聞きたくないわ! 飲みなさい!」

「すいませんお兄さ~ん! ビール一本追加で!」

眼鏡の挟み打ちとでも名付けておくか。

「ど……どうしたんですか一体?」

まあ当然の疑問だろう。

「和と先生、ブーケ取りたくて必死になってたのに
 唯が自分達とは明後日の方に投げたからむしゃくしゃしてるんだとさ。
 おまけにキャッチしたのが結婚願望ゼロの梓ときたもんだから八つ当たりしてるんだよ」

「あ~……なるほど……」

妙に納得している憂ちゃん。だがその顔は止めた方がいいな。あらぬとばっちりを受ける事になる。

「唯……やっぱり綺麗だな」

「……はい」

その短い返事を聞きつつ、チラと高砂の席に目をやる。
そこには今まさに自身のお色直しの為に席を立とうとしている新郎が居た。
……あれが憂ちゃんが心から祝いたくないと言っていた新郎か。
結婚式の時には唯ばかり見ていたし、今行われている披露宴では席が遠いので
顔をしっかり確認するのはこれが初めてだ。

「ん~……まあ見た目には悪い男には見えないな」

イケメンだがイケメン過ぎず、笑顔だがはしゃぎ過ぎず。一言でいえば合コンでモテるタイプか。

「まあ中身までは知らないけどさ」

「ええ……」



113 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:36:47.12 ID:lbnm/+LS0

その新郎の方を見ようともしない憂ちゃん。
実は披露宴の途中にもチラチラとこの娘に目をやっていたが、
私の知る限りでは一度も新郎を……いや、高砂の席を見ようともしていなかった。
どうやら憂ちゃんは本当にあの男の事を毛嫌いしているようだ。

昨夜の奇行じみた一人酒盛りを肯定する訳ではないが、
そこまで気にくわない男と姉が結婚する事を考えればムシャクシャするのも当然か。
正直式に出てくれただけでも殊勲物な気がするな。

「失礼致します、お飲み物をお持ちいたしましょうか?」

横から入って来たのは慇懃な口調で高身長の男性スタッフだ。三十代半ばといったところか。

「私は結構なんでこの娘に烏龍茶をお願いします」

「かしこまりました」

そう一礼し、キャンドルの火も揺らさないような足の運びでスタッフルームへ入っていく男性スタッフ。
そういえば話し掛けられるまで気配すら感じなかったな。 ……ま、それはいいとして。

「憂ちゃん」

自身の膝元へと落として居た目をこちらに向ける憂ちゃん。
……新郎新婦入場の時から思っていたが、あまり楽しそうな目じゃないな。

「あのさ、今朝も言ったけど……あの男が嫌いならそれでもいいと思うんだよ。
 それは憂ちゃんが決める事だし、誰も口は挟めない。たとえ唯だってな」

そこでまた下を向こうとする顔を制し、小姑じみた言葉を続ける。

「でも、唯のことは見ててあげて欲しい。
 どんな奴とくっついても今日が唯の人生で一番綺麗な日って事に間違いは無いだろうからさ。
 ……それを見逃すなんて勿体ないよ?」

十五秒程黙っていただろうか? 結局沈黙は言葉で満たされる事無く、小さな首肯で返された、
……私もとんだお節介者だな。オフィスでお局様と呼ばれてなければいいが。

「愚痴なら東京に帰ってから梓と一緒に聞いてあげる。今思ってること全部聞いてあげるからさ」

その細い肩にすっと手を置く。今にも折れてしまいそうな華奢な身体だ。
この身体がずっと支えてきた姉の結婚式。……この妹以外が喜ばないで誰が喜んでいいって言うんだ。

「唯の事だけでも……見ててあげてくれよな」



114 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:42:04.36 ID:lbnm/+LS0

今度は二十秒程の沈黙だっただろうか?
それを切り裂いたのは首の運動では無く、口から発せられた音の塊。

「……はい」

たったそれだけの返事だった。

「約束だぞ?」

「……はい」

よし、と笑って立ち上がり、軽音部関係者のテーブルで玩具にされているアホ猫を見る。
眼鏡コンビからだいぶ飲まされてはいるが、これくらいで酔い潰れる程やわな調教はしていない。

「じゃ、余興行って来るな。聴いててくれよ、卒業ライブ以来の私の演奏」

そう言って歩き出す私。……おっと、いけない。

「長女と三女で頑張ってきます!」

なんて言いつつ、敬礼なんてして見せる。
憂ちゃんはそれに微笑と首肯で答え、私はそれを見て手を下ろしテーブルを離れた。
それと入れ違いにテーブルへ歩み寄る先程の男性スタッフ。トレイの上には烏龍茶だ。

「テーブルに置いていらっしゃるグラスはお下げてもよろしいですか?」

すっかり忘れていたな。まあ今から親族席へ戻るのも何だかかっこ付かない。

「すいません、じゃあお願いしてもいいですか?」

「かしこまりました。お任せ下さい」

私に一礼して道を譲る彼に頭を下げ、私はゆっくりとその前を通り過ぎた。

……そしてこの時私が考えていた事は一つ。
何の罪も無いのに理不尽な責めを受け続けているアホ猫を救出するのが先か、
はたまた私のバケットを勝手に摘んでいる幼馴染と女社長をとっちめるのが先か、
どちらを優先すべきかという事だけだった。



117 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:47:14.62 ID:lbnm/+LS0

暗がりの披露宴会場。その隅の小さなお立ち台のようなステージ。
その上でスポットライトが客席の間を進む新郎新婦を照らし出すのを見つつ、
私は二フレットに銜えさせたカポのネジを締め直し、
もう一度チューニングを合わせる作業をして意識を指先に集中させていた。

「唯先輩……本当に綺麗ですね」

隣からするアホ猫の声。拍手に掻き消されそうな小さい声を必死に聞き取り、合の手を入れておく。

「そうだな……」

それしか浮かばない自分のボキャブラリーが貧困なのか、
はたまた浮かべさせない唯のドレス姿が美し過ぎるのか。
……まあどちらでもいいか。

「なあ梓」

間髪を容れずに返ってくる言葉。

「何ですか?」

少し意地悪な質問でもしてやるか。

「武道館とこの披露宴、どっちが緊張する?」

ああ……と梓。

「私、基本的に緊張しないんで。ライブハウスでも武道館でもスタジアムでも変わりません」

何だ……つまらないな。

「そうかい。つまらない質問して悪かったよスーパーミュージシャン様」

「……何かトゲがありますね?」



119 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 02:52:48.98 ID:lbnm/+LS0

無い無い。私は仰々しく手を振って見せる。……質問を変えてみるか。

「じゃあさ、今までのライブと今日のステージ、どっちが大切だ?」

答えるのも無駄だと言わんばかりの口調で言葉を放つ梓。

「ステージに上がる以上は常に百パーセントを出すのがプロです。
 どれが大切だなんて順位付けをするとそれがブレます。私はそういうのが大っ嫌いです」

思いの外御立派な答えが返って来た。
やはりプロフェッショナルの何たるかを熟知してる人間は違うな。
そこら辺のライブハウスでファッション感覚の音楽やってる
チャラい兄ちゃん達に爪の垢でも煎じて飲ましてやりたい。

「流石だな……。聞いた私がバカだったよ」

そう言った瞬間、丁度高砂の席の壮麗な椅子に新郎新婦が腰を下ろした。
両者とも素敵なお召し物だ。特に唯が身に纏っているライトグリーンのドレスなんて輝いて見える。

「でもさ、あのお姫様の為なら百二十パーセントくらい出してあげてもいいんじゃないか?」

その言葉を聞いた梓は高砂の席を見つつ、小さく息を吐いた。
視線の先には絵本から出てきたようなお姫様だ。
そしてアホ猫は暫し黙った後その息に負けないくらい小さなボリュームで

「……特別ですよ」

なんて甘ったるい言葉を吐きやがった。
普段なら盛大に噴き出す所ではあるが、まあそういう訳にもいくまい。

「ああ……特別な」

そんな言葉を受け、隠しきれない照れ隠しを必死に隠そうとする梓。……可愛いものだ、まったく。



120 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:01:15.75 ID:lbnm/+LS0

高砂の席からスポットライトを譲り受け会場内の視線がこちらに集中する中、
私は梓の取るカウントを合図にマイナーセブンのコードで音を爪弾き出した。

この日の為に練習を繰り返した結婚式の定番ソング。
曲説もしなかったが誰もが知るイントロに会場内から小さな唸りが聴こえる。
足元のモニターから返ってくる音は私の奏でるアルペジオと
梓のリードがミックスされた何とも言えない柔らかい音だ。

梓の指示の出し方が的確だったのか、はたまたあのPA二名が優秀だったのかは分からない。
だが思わずグッとくるリードの響きの良さと、
自由気ままに加えられるアドリブを聴けばどうやら梓好みの音になっているようだ。
調子の乗り方でよく分かる。

思わずこのままセッションを続けてしまいたくなるが、残念ながらこれは本番だ。
私は見るからに高そうなコンデンサーマイクに向けそっと歌声を紡ぎ出す。
素人の域は出ないだろうが、それでも元バンドガールとしてやって来た事は
今ここで全て出しきってみせるつもりだ。

梓に百二十パーセントを出すよう要求しておいて
自分だけ百パーセントで済ませる訳にはいかないからな。

それにしてもこの歌、本当に歌詞が良いと思う。
二人の門出を適当に祝うだけの煩雑な結婚ソングが世に溢れる中、
この歌は新郎の目線にぐっと入り込んでただただ新婦を見つめているという
その一点だけを描いている、何と言うか……ちゃんとした芯のある曲なのだ。
私達が今日この曲を演奏しようと決めた理由も、実はそこにあったりする。

結婚式で新郎新婦の二人の事を祝うのは当然だ。そんな事は子供でも知っている。
だが、よくよく考えれば私と梓は唯の事しか知らないのだ。新郎の事なんて顔さえ知らない。
そんな状況で「二人ともお幸せに~」なんて言っても説得力があるだろうか?
いや、説得力云々では無くて私達がすっきりしないのではないか?

当日演奏する曲を選考している時にその懸案事項とぶつかった私と梓。
そしてある日の長電話の末、梓の言い出したこんな言葉でその懸念はあっけなく終結に至った。



121 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:12:00.47 ID:lbnm/+LS0

『私が祝いたいのは唯先輩です。どんな人と結婚しても私は唯先輩の為に式に出ます。
 だったら、唯先輩の相手のことなんて考えなくてもいいんじゃないですかね?

 世間は二人の門出を祝う為に結婚式があると思っている人が多いかもしれませんけど、
 見ず知らずの人の為に高い御祝儀渡して、ばっちりドレスでオシャレを決めて、
 堅苦しい親族のスピーチ聞くのなんて普通に考えたらまっぴらですよ。

 私が祝いたいのは唯先輩だけなんです。だから唯先輩だけを祝います。
 ……そんな感じでいいんじゃないですかね? 結婚式なんて』

柄にもなく良い事を言った梓のその言葉により、
私達が演奏するのは花嫁を祝う為の歌にしようと決まったのだった。

そしてそれに該当したのがたまたま私の家のCDラックで眠っていた
男性デュオのベストアルバムの中の一曲。
誰もが一度は耳にしたことのあるであろうこの有名なバラード曲だったのだ。

その歌の最後のCメロ部分を歌い上げ、曲は最後の大サビへと流れて行く。
ギターを弱めて歌声を強く。一人で再三練習した抑揚をつけたボーカル。
そこに梓の出しゃばらないリードが重なっていく。

眩しいスポットライトの端からふと見えた親族席には、
こちらをじっと見てくれている新婦の妹の姿が見えた。
表情までは確認する事が出来なかったが、顔を上げて見てくれているだけで十分だ。
そのまま高砂の席を見てくれればもう何も言う事は無い。

そんな事を思いつつ、私は最後のワンフレーズをマイクに向けて紡ぎ出した。
チラ、と横を向いて音を切るタイミングを図りつつ、梓の合図を待つ。

……本当に出来てしまったな。一ヶ月でギター演奏。アホ猫に感謝だ。
そんな私の心を読むように梓は演奏に入り込んだプロの顔を緩め、
少しだけ口元を緩めてギターのネックを軽く持ち上げた。
私もそれに倣い、同じ角度までネックを持上げる。

そして二人同時にそれをゆっくり振り下ろし、
私はノーマルのコード、梓はセーハのコードで曲を締めた。
その音の余韻が止むまで、見合わせたこの顔が離れるまで、
暫く拍手が起きて欲しくないと思ったのは私だけでは無いはずだ。

初めての梓と二人のステージ。……私はもう少しだけここに居座っていたい気がした。



122 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:17:08.22 ID:lbnm/+LS0

「二人ともお疲れ! ほら、飲め飲め!」

「はいはい、ギター片付けたら行くから待ってろ」

演奏を終えた私達は会場中から割れんばかりの拍手と大歓声を頂き、
今しがたステージを下りて軽音部関係者の席へと戻ってきた所だ。
まあこんな事を言うのは本来正しくないのだろうが、
正直言うと会場の反応などどうでもよかったのだ。
私と梓の目標は唯を喜ばすこと。その一点に向けられていたのだから。

「大成功ですね」

絃をタオルでさっと拭いてケースに超高級ギターを仕舞う梓。
その視線を追って私も高砂の席へと目をやる。

「ああ、間違いないだろうな」

そこには司会が進行を躊躇う程に泣きじゃくりながら顔を手で押さえる花嫁の姿があった。

おかげで式は一時中断中。

この後式は友人のスピーチ、祝電披露、そして花束贈呈でフィニッシュとなる。

「……子供みたいだな」

別に泣きじゃくるのは良いがドレスを汚してくれるなよ? 私達に請求書が来ても一切関知しないからな。

「お疲れ様です」

小声で話し掛けられた相手が自分達だと気付くのには数秒の時間が要った。
最初に梓、倣って私が目を向ける。

「すっごくよかったです!」

相変わらず周りに聞こえないよう小声ではあるが、今度は親指を立てて私達を称賛してくれたその娘。
ピンスポを浴び続けて目が慣れていなかった為最初は判別できなかったが、
よくよく目を凝らせば先程式の前に打ち合わせに来たPAのアシスタントちゃんだった。



124 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:22:21.24 ID:lbnm/+LS0

「ああ、ありがとう」

「上手いねPA。さすがは私の後輩!」

「いえいえ、中野先輩のPAなんて緊張しすぎて倒れるかと思いましたよ……」

そう言ってハイタッチを交わす二人。
時期は被っていないが先輩後輩の関係となればやはり何かしら感じる物があるのだろう。
二人とも随分と互いを讃えているように見える。だが確かに音は良かった。
客席とステージでは音の聞こえ方が全く違うとは思うが、
ステージの上であれだけ心地いい音が聴けたのだから客席なんて言わずともがなだろう。
音にうるさい軽音部OGの連中が一様に笑顔で迎えてくれたのが何よりの証拠だ。

「でも本当によかったです。ギターも歌も最高でしたよ」

「いやいや、そこまで褒められると照れるな」

「やだなぁ、先輩にはお世辞で言ってるん」
ガツン!!
「に゛ゃっ!!」

このアホ猫はまったく……。

「お世辞でも気分が良いに決まってるだろ! ぶち壊すなこのタコ!」

「ちょっとした冗談じゃないですかぁ~……」

そんなお決まりのそのやり取りを終えた時、場内の照明がスッと暗くなった。式再開だろうか?

「あ、じゃあ私戻りますね。最後まで楽しんで行って下さい!」

「うん、ありがとう」

「じゃあね~」

軽音部関係者の席から程近いPA機材席へと足早に去っていくアシスタントちゃん。
その背中を見届け、私と梓も自身の席へと踵を返す。
そしてその私達を笑顔で迎えてくれる仲間達。
ちなみに和と先生はもうべろんべろんで、机に突っ伏したままピクリとも動いていなかった。



126 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:28:01.19 ID:lbnm/+LS0

「二人とも最高!」

「ホントにな! やっぱり軽音部の二大巨塔は違うな!」

異様に褒めちぎってくれるムギ律コンビに謝辞を述べつつ、私は親族席に目をやる。
その視線に気付いたのか、憂ちゃんはこちらに向け二回頷き小さく拍手も送ってくれた。
その顔には見違う事無き満面の笑顔み浮かんでおり、それを見て私は本当に心の底から安堵した。
唯も憂ちゃんも喜んでくれている。それは恐らく、心の底から。

その笑顔はこの一ヶ月の私と梓の努力を何よりも労ってくれている、
いわば見えない勲章のように思えたのだった。

……やってよかった。……本当に。


その後、友人代表のスピーチでは呂律の全く回っていない和によるスピーチならぬ爆笑漫談が行われ、
会場は一人残らず涙を流して腹を抱えるという異様な事態に陥った。
締めの言葉が「もう飲めません……」とはどういう事なのだろうな和さん?
まあ持ち時間の五分を厳守した所は和らしかったのだが、
席に戻るなりまたしてもビールをグラスに注ぎ出したところで先生に思いっきりツッコまれ、
またしても会場中の爆笑を攫ったのは最早切腹ものだ。
隣に座る私のことも少しは考えて欲しい物だな……まったく。


「ああ……結局見つかりませんでした……」

哀しい面持ちで嘆くアホ猫。そう、式はもう新郎新婦による両親への花束贈呈だ。
それに伴っての手紙朗読が間近に迫っている中、
またしてもポケットを漁りつつハンカチを探しているアホ猫は先の通りに嘆いていた。

「ちゃんと探してやるから今はしっかり唯を見ててやれよ。式で一番いい部分だぞ?」

梓はその言葉にシュンとしつつも渋々頷き、溜息を一つ吐いて前を向いた。
高砂の席から降りた新郎新婦がゆっくりと両親の待つステージ前に歩を進める。
これから来る感動のシーンに向け、誰もがハンカチを用意していた……そんな時だった。



127 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:33:17.21 ID:lbnm/+LS0

「あれ~?」

そう呟いたのは私の隣の席でフラフラになりながらも
何とか意識を保っている和だった。何だ? まだ喋り足りないのか?

「みぃ~おぉ~」

「何だ? 静かにしろよ……」

このシーンをぶち壊したら恐らく和は一生唯に頭が上がらなくなるだろう。それは防いでやらないとな。

「しかいのひとぉ~……こっちにむけてぇ~……なにかいってないぃ~?」

「何?」

和の言う通りだった。薄暗い会場の中を切り裂くようなピンスポの漏れ灯が微かに照らす司会の男性の顔。
その口元が私達に向けて大きく動いているのが見て取れた。

「……ん?」

だがよく見れば、その音無き言葉が発せられている先は私達のテーブルでは無く、
私達の席の後方、スタッフ用スペースにあるPA席だったのだ。

「何だ?」

振り向いてそのPA席を見れば、手元を照らす為の小さなスタンド照明が放つ灯りに
女性スタッフ二名の青い顔が照らし出されていた。

ガチャガチャと音を立てながら機械をいじくりまわす姿は、
何処をどう見ても平静の二文字が似合わない。とにかく何かがあったのは間違いないようだ。

私はもう一度司会の男性に目を向け、読唇を図ってみる。
暗くてよく分からないが目を凝らせば何とかなりそうだ。
それに花嫁達が動くに連れてピンスポも移動し、
司会の男性のの顔は徐々に明るく見やすくなっていっている。



128 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:39:32.31 ID:lbnm/+LS0

『びー』

びー? Bか?

『じー』

G……? B……G……

………………

「あっ……」

最後の一文字を見るまでも無い。
B・Gと来てPA席に向けられた視線を考慮すれば自然と出てくる文字だ。
そしてそれを繋げて完成する物は今この空間に存在しなければならない、
だが存在していない無形の演出物だった。

「おいおい……」

私はそっと席を立ち、梓の肩を叩いてついて来るよう促す。
その行動に不思議そうな顔をした梓だったが、
私の顔が真剣だと気付くやすぐに頷いて席を立ってくれた。

その梓を伴って駆け寄った先は当然PA席。慌てふためく二人の女性スタッフに私は話し掛けた。

「鳴らないのか?」

驚いた顔をしてすぐにブンブンと首肯するアシスタントちゃん。

「音を出す装置が故障したみたいで……。マイクの音は鳴るんですけど……」

どうやら悪い予想は的中したようだ。



129 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:44:40.57 ID:lbnm/+LS0

「鳴らないって……何がですか?」

まだ事態が飲み込めていない梓の口から質問が飛んで来る。

「BGMだよ」

そう、司会の男性やこの二人が慌てているのはそのせいなのだ。
BGM、バックグラウンドミュージック。
花嫁の手紙朗読に向けて恐らくはもう鳴っていなければならないはずの
背景音楽が、この会場内にはまだ鳴り響いていなかったのだ。

「ええっ!? 鳴らないって……マ、マズイでしょ!?」

そう、マズイ。ここは式として何が何でも感動させなければならないような場面だ。
この花嫁の手紙朗読はやはり式で一番記憶に残りやすい。
実際今日初めて結婚式に出席している私だって
この場面より他に感動するようなシーンは無いと確信すら覚えているのだ。

この場面は今日出席した全員の心に間違いなく一生残る。
それには花嫁の朗読を盛り立てる為のBGMは不可欠なのだ。

「梓、お前何とか出来ないのか?」

「ええっ!?」

ムチャ振りもいい所かもしれないが、
普段スタジオでプロの機材をいじりまくっているこいつならあるいは……。

「む、無理言わないで下さい!」

あっけなく却下かよ。

「PA担当の人間が直せない物を一介のギタリストが直せる訳ありませんって!」

その通り。その通りなのである。その通りではあるのだが……。



131 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:49:49.44 ID:lbnm/+LS0

「どうしよう……。どうしよう……」

この顔を見て見捨てられる訳無いだろう……。

「ああ……始まっちゃう!」

言われて振り返ればもう既に唯は便箋から紙を取り出している所だった。
司会の男性も諦めたように顔を引き攣らせていて、
PA担当の女性は小声でインカムに向け「鳴らないんです!」と繰り返している。

せっかくここまで上手くいった式。
気にしない人も居るかもしれないが、これはスタッフ側から見れば恐らくプロとしての意地の問題だ。
このBGMが鳴らない事によって少なからず責任を感じる人間は出る。そしてそれを追求する人間も……。

親友の結婚式でそんな事を起こらせてたまるか。
全員が気分よく、携わった者全てが笑って終わらなければならない式なんだ。
何か……何かいい方法は……。

「あっ!」

突然梓が体を跳ねさせた。

「何だ? どうした?」

その言葉と同時に梓がある物を指さす。

「アレ!」

それは二本のマイクスタンドと、その先に鎮座している二つのマイクだった。
そしてその後ろには私達が式が終わるまでという約束で置かせてもらっているギターケースが二つ。
これは……。

「……あっ」

ここまでの物が目に入って流石に気付かないはずが無い。
そうだよ、さっきまでこいつを使って一曲演ってたじゃないか。何で気付かないんだよ。



133 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 03:55:02.38 ID:lbnm/+LS0

「マイクは入るんだよね?」

梓の問いにブンブンと首肯を繰り返すアシスタントちゃん。
よし……、何とかなるかもしれないぞ。

「セットして!」

そう指示を飛ばし、ギターケースへと駆け寄る梓。私もそれに倣い慌てて駆け寄る。

まだ手紙の朗読は始まらない。
パッと見だが、どうやら唯のドジっ娘魂に火がついて
便箋から手紙を取り出すのに一苦労しているようだ。
ナイス唯。お前はやれば出来る子だと思っていた。

「あ、先輩待って!」

ケースからギターを取り出し、カポを取りつけようとした所で梓から待ったが入った。

「何だ? さっきの曲じゃないのか?」

首を横に振る梓。そして何故かこんな時に悪~い顔をして私に耳打ちをしてくるのだった。

「ピンチ窮地は大逆転の為に起こるんですよ」

そう言って梓が告げた作戦。まあ作戦という程の物でもないが、この発想には正直恐れ入った。

「お前天才かよ?」

その言葉にピースで応える梓。
それと同時にマイクのジャックを機械に繋ぎ終えたアシスタントちゃんが
自身らの座っていた椅子を私達に差し出してくる。

それにさっと腰掛け、PA席の小さなスタンドの灯りを頼りに
私は右手でB♭メジャーセブンのコードを抑えた。……ついでだから言っておくか。



134 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:00:10.31 ID:lbnm/+LS0

「Fのコード進行は素人には難しいんだぞ?」

「はいはい」

怪訝にも掛けず梓は笑ってそう言った。
それを合図にしてかは分からないがアシスタントちゃんは鼻の前で人差し指を立て、
機械のスイッチをパチリと押して私達にジェスチャーで「どうぞ」と言ったのだった。

「ワン、ツー、スリー……」

梓が小さな声と共にギターの腹を親指で叩いてカウントを取り、
私はB♭メジャーセブンのセーハーコードを抑える指にぐっと力を込める。
そして、一瞬のハウリングを伴ってその曲は奏で始められた。
あの頃の私達が指の皮を幾度も破りながら練習していたこの曲。

……一体誰の書いたシナリオなんだろうな。
梓が練習用にとこの曲をバラードバージョンにアレンジして私に楽譜を渡したことも、
すぐにマイクで音が拾えるアコースティックギターを選んだことも。
もっと言ってしまえばこの曲を聴いて梓が軽音部に入ろうと決めたなんて事も、
全部全部が始めから一つの線上にあったとしか思えない。

『えっ……?』

ギターの音を聴いて振り返った唯の声を小さくマイクが拾った。
おまけにタイミングよく私達にまでピンスポが当てられる。
一体どれだけレベルの高いスタッフワークをしているんだろうね、この式場は?

『あっ……』

そんな言葉を漏らして呆然となる花嫁を司会の男性が促し、
二、三度頷いて前を向いた唯によって漸くその手紙は朗読され始めた。
残念ながら人の話を聴きながらギターを弾く余裕は私には無い。
そして梓も一度演奏に入り込めば他の音が耳に入らなくなってしまうと言っていた。

だから唯が手紙を読み終えるまで、私と梓は耳を塞ぐようにギターを弾いた。
思い浮かべる情景はただ一つ。この歌を無邪気に歌う高校時代の花嫁が居る音楽準備室だけ。
そこに置いて来た沢山の思い出達を閉じた針を外しつつ、私と梓はギターを弾いた。



135 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:10:32.12 ID:lbnm/+LS0

「澪ちゃああああああああぁぁん!!!」

そう言いながら涙でぐっちょぐちょの顔で私に抱きついて来たのは他ならぬ花嫁、唯である。
片手にはピンクのハンカチ。随分と子供じみた色だな。

「サプライズな゛んて゛……ぎぃでだいよ゛ぉ~!」

「そりゃそうだ」

聞いてたらサプライズじゃ無い。
……というかまず私も聞いてなかったんだ。寧ろこっちがサプライズだ。

「ああ゛!! ばずにゃ~ん!!」

「何ですかそのメタルバン……うぶっ!」

ツッコミを遮るように抱きつく唯。そしてその低い胸に埋められる梓。
……ごめん、今の「低い」は撤回する。「人並み」と訂正しておこう。


披露宴は最後の最後で起こったトラブルを何とか回避して終了し、
今は招待客が式場を去るのを新郎新婦と両親が見送っている所である。

……結局BGMを流す機械は直らなかった。
もう仕方が無いと新郎新婦退場まで私と梓はギターを弾き続け、
先程それを終えて全参加者中一番最後に式場を出てきた訳である。

もちろんスタッフ一同からは大感謝をされた。
式場の最高責任者まで出てきた時には流石に焦ったがな。

これから一度帰って二次会。
……正直疲れていてあまり気乗りはしないが、まあ行かない訳にはいかないんだろうな。

「それにしても良くあれだけスムーズにギター弾けたな?
 どこかで聞いたことある曲だと思ったらまさかホッチキスだったなんてびっくりしたよ」

「本当、二人が席に居ないと思ったらギター弾いててびっくりしたわ」

あ~……と頭を掻きつつ、私は答える



136 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:17:15.20 ID:lbnm/+LS0

「不慮の事故だよ。世の中助け合いさ」

やや興奮気味に話し掛けて来るムギ律を軽くあしらい、
私はロビーの隅のソファーでじっと座っている花嫁の妹を見つけそこへ向かって歩き出した。

ちゃんと顔を上げて唯の事は見ててくれたと思う。
だが……結局高砂の席の二人を見て最後まで笑う事は無かった。
姉の一生一度の晴れ姿。……祝ってくれたんだろうか?

「あの、すいません」

ん? 何だ?

「はい」

声のした方を振り返れば式場のスタッフと思わしきスーツの女性が立っていた。
ピシッと決めた大人の女性。
梓が身長伸びて礼儀正しくなって髪切って仏頂面じゃ無くなったら
こんな素敵な女性になるのかもしれないな。

「失礼ですがこれはお客様の物ではございませんか?」

……あっ。

くるっと振り返ってそのブツの所有者を見る。

「のわあああああああ! 澪先輩たしゅけてぇ~~!」

気付けば花嫁だけでは無く、その場に居た一同からもみくちゃにされているアホ猫。
もう少しそうしてろよな、まったく……。

「知り合いの物です。何処にありました?」

「えっと、チャペルの前ですね」



137 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:24:10.77 ID:lbnm/+LS0

ああそうか、多分律に引っ張られた時だな。それしか考えられない。
……まあ見つかったからいいか。お咎めは無しにしよう。

「私から渡しておきますね。ご丁寧にどうも」

「そうして頂けるとありがたいです。では……」

丁寧な四十五度の礼をして去っていく女性スタッフ。
この隅々まで行き届いた接客のノウハウを是が非でも学んでみたいものだな。
きっと世の中何処に行っても通用することだろう。

……おっと、目的を忘れる所だった。
私は受け取ったブツをスペースのないポケットに無理矢理押し込み、そっとソファーに近寄った。

「隣……いいか?」

返事も首肯もせず、かといって拒否をしている風になんて甚だ見えず、
彼女はただただ自身の手の甲を見つめ続けている。
私は一瞬躊躇ったが結局ソファーには座らず、彼女の後ろ立ってその細い肩へと両の掌を乗せたのだった。

「……憂ちゃん、正直に答えて」

またしても返事も首肯も返って来ない。……だがいい。そうしたいのならそうすればいいのだ。
私はそれも受け止める。……約束したから。

「……楽しくなかったろ?」

ピク、と掌に直接伝わる感情の起伏。イエスかノーかなんて聞き直すだけ時間の無駄だ。

「……辛かったろ?」

……まただ。またしても身を竦めて反応する彼女。

「正直者は大変だよね。こういう時にも嘘がつけないんだからさ」

首をブンブンと横に振ってそれを否定しようとする憂ちゃん。
だが、小刻みに震える肩が一向に止まる様子はない。
……我慢は体に良くないってよく言うんだけどね。



138 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:29:35.27 ID:lbnm/+LS0

「……東京に帰ったら、一緒に飲もうな」

それだけ言って私は彼女の肩から手を離し、
ポケットから自分の白いハンカチを取り出して彼女の重ねられた手の甲の上にそっと置いた。

「月曜、会社で会おう」

そんな言葉を残し、私は彼女に背を向けた。
話はいつでも聞いてあげられる。何があってもそばには居てあげられる。
求められれば何でも出来る、望んでいれば察する事が出来る。

だけど……一人にしてと言われたらそれまでなのだ。外野にはどうする事も出来ない。
人を求めようが拒もうがそれはその人物の勝手。
そこに土足で踏み入って傷付けずに退出する事が出来る程私は人間が出来ていない。

……そして彼女は何も言わなかった。

それは間違い無く彼女が彼女なりに示すサインであり、それを見極めてあげるのが私の役目だ。
彼女は一人になりたがっている。そこに私が寄り添うのは違うと思う。
辛い時寂しい時はそばに居るなんて陳腐な歌詞の一節にありそうな言葉を私は決して好まない。
その相手が寄り添いたいと言うまで、一緒に居たいと望むまで傍観をしてあげるのが本当の優しさだ。
……私はそう思う。

だから憂ちゃん。今は一杯傷付いて、どうにもならない程落ち込んで、
ちょっとだけ甘えたくなったらこっちにおいで。
私と梓が徳利とお猪口片手に待っててあげるからさ、
いつでもおいでよ。悪いけど……私にはそれ位しか出来ないんだ。

……不出来な姉でごめんね、憂ちゃん。


そしてやはりというか何というか、二次会に憂ちゃんは来なかった。
気分が悪いと唯に告げてかつての自室に閉じ籠ったまま、
結局強引な誘いにも応えずに家で寝ていたのだとか。

さわ子先生や和が暴走して大波乱となった二次会を乗りきった私と梓は結局その店で別れ、
翌日の帰都以降暫く奴のスケジュールの関係で顔を付け合わせる事は無かった。

憂ちゃんは私達とは別の飛行機で東京に戻って来たらしいが結局連絡は入らず仕舞い。
週が明けても体調が優れないと会社を休み、私も流石に心配したが連絡は一向に取れず、
結局それは月曜の黄昏時まで何の音沙汰も無い状態が続くのであった。



139 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:35:39.91 ID:lbnm/+LS0

鬱鬱真っ盛りの月曜四時半。
さすがに真冬なだけあってビル風が酷く冷たい。
頬を撫でるなんてロマンチックな表現はとてもではないが似合わないな。まるで殴られているようだ。

私は今日一日を得意先回りに当てていた。
相方がいないので話す相手も居らず、それはそれは寂しい道中であったのは言うまでも無い。
……ああ、相方というのは勿の論で憂ちゃんの事だ。今日は風邪で休むと課長に連絡があったのだとか。
やはり私には言い辛いのだろうか? ……まあそれも仕方ないだろう。
直接連絡を取ると色々聞かれると思っているのだろうな。
別にそんな事は無いのだけれど、彼女からすれば気の重い話なのだろう。

そんな事を思いつつ、見慣れたビルの見慣れたオフィスへと帰還を果たす私。
暖房の効いたフロア内に入ると途端に耳が冷たく感じだす不思議。
ほんの数瞬前までは耳だけがやたら熱く感じて堪らなかったのに。

「ただいま」

「ああ主任、お帰りなさい。寒かったでしょう? お茶入れますね」

「まだ主任じゃないっての」

「まあいいじゃないですか! 秋山しゅ・に・ん!」

終業間際で若干表情の緩んできている我が班の一同がうんうんと頷きつつ迎えてくれる。
それを受けながら自分のデスクに腰を掛ける私。
隣の空席がやはりというか何というか、ズンとボディーに来た。

「……ん」

コートを丸めて机の上に置き、さっとポケットから携帯を取り出して
今しがた呻りを上げ始めたバイブレーションを止める。
サブディスプレイに表示されたのは見た事も聞いたことも勿論付き合いも無い男性の名前。
……またアドレスを変えなければならないようだ。

「そんなに出逢いなんか求めて無いっての……」

二つ折りのそれを開いて即刻その迷惑メールを削除し、同時に溜息を一つオフィスの虚空へと吐き出す。
先程までと違って微塵も白くならない息に若干の違和感を覚えつつ、
私は手に握った現代科学の粋で本日三度目となるコールを隣の席の主に飛ばしてみた。



140 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:41:00.14 ID:lbnm/+LS0

プルルルルルルルル……

ワンコール

プルルルルルルルル……

ツーコール

プルルルルルルルル……

スリーコール

プルルルルルルルル……

……ダメか。

留守番電話サービスセンターに接続されてしまう前にこちらから電波を遮断する。
メッセージを残しておいても無駄とは思わないが、
何となく憂ちゃんが留守電を聴くとは思えなかったからだ。

「主任、お茶どうぞ」

そう言って出された緑茶に礼を言って手を伸ばす。
もう主任という言葉にツッコミを入れるのはヤメだ。
どうせ四月からは本当にその役職に就くわけだし、慣れておいてもいいだろう。

「平沢さん、電話出ませんか?」

去年の四月に入ってきたばかりの
おっとり女子社員の口から飛んできた質問に首の動きだけで答える。
溜息の同伴出勤付きだ。

「風邪ですかね~? 最近のはタチ悪いって聞きますし、移動で疲れたんでしょうか?」



141 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:46:22.32 ID:lbnm/+LS0

それを言うなら私だって同じだ。
おまけに地元の町から空港まで車を運転した分私の方が疲れているに決まっている。
それに憂ちゃんが体調管理を怠るなんて到底思えない。
今は……他の理由で苦しんでいるのだろう。まあこの女子社員には悉く縁の無い事なのだろうが。

「書類上がってる?」

目の前の中年サブリーダへと声を掛ける。
私より年上の人間が大半を占める我が班なのだが、
会社の規定で上司は目下の者に敬語を使ってはいけないと厳格に定められている為、
慣れないながらもこの口調で話すしかないのだ。
正直言う、リーダーになってもうすぐ一年が経つが未だに慣れない。

「OKです。後はリーダーと課長に目を通してもらって部長に持って行くだけです」

私より十歳も年上のサブリーダーが笑顔でその書類を差し出してくる。
入社当時はあれだけ厳しかったのに、いつの間にか立場が大逆転しているな。
正直今でもこの人の前では委縮しかけてしまうというのが本音なのだが……
それでもえばって敬語を使わせなければならないというのがちょっとアレだ。
出世とは……いろいろな意味で辛いんだな。

「ありがとう。じゃあ後は月末報告書の上申欄に記入する事を各自に纏めさせといて。
 今日はそれで上がり。残業が無い人は一秒でも早く帰れるよう早急に終わらせると良いよ」

「了解です、主任」

ニタ~と笑って班員に指示を飛ばすサブリーダーの彼。四月からは彼がこの班のリーダーなのだ。
苦節十年、後輩に追い越され追い越されしてきた彼も
これでやっと出世街道のスタートラインに立てる訳だ。

まあ私は立ちたくも無いのに気付けば立たされていた訳なのだが……今更文句は言うまい。
そのおかげで四月からは仕事も給料も増えるのだ。ダラダラしていると頭を抱える回数が増えるだけ。
剣呑そうな顔をしたらこの仕事は負け。部下だってそれをちゃんと見ている。
それにはまずはこの報告書から。細かい所からじっくりと、ね。



帰り道、電車の中で私は甚だ意外な人物と顔を合わせる事となる。
私が会社の最寄り駅からいつもの人がごった返す環状線車内へと飛び込んだ瞬間、
パッと目の前に現れたその人物と目が合ったのだ。



142 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:51:37.06 ID:lbnm/+LS0

「あっ……」

「おお? 珍しい」

律だった。いつもならこの電車は使っていないはずなのだが……。

「こんな時間に帰宅とは……流石に一流企業さんは違うね」

眉を八の字に曲げて律は笑った。そういう自分は帰宅途中では無いのだろうか?

「まだまだ。今から会社に返ってちょっと仕事しなきゃ。残業代稼がないとね」

やはり大変なようだ。定時で帰れることの方が多い私と違い、身を粉にして働いているのが分かる。
だがきっとこれが普通なのだ。その分自分の就労状況があまりに恵まれているのだと痛感させられるな。

「いや~、それにしても二泊三日で地元へ凱旋旅行ってのもキツいね。身体が悲鳴を上げてるよ」

「結婚式込みだもんな。おまけに仕事でゆっくりしてる暇も無いときたもんだ」

「お互い辛いよな~。澪は何かのリーダーしてるんだろ? 人の上に立ってるんだから尚更だよな」

「四月からは主任だ」

「げっ……また昇級かよ」

そこで溜息を一発。
傷付いたスーツ戦士達がベースキャンプに帰るような静まり返った車内ではそれすらも煩く感じられる。

「課長が辞めるからだよ」

「ああ……そっか、みっちゃんの分の繰り上げ昇級か」

「そんなとこ」

まったく……おめでたい話だ。
結婚と仕事、天秤に掛けたら絶対に仕事を取るなんて言っていたあの人が
もうすぐ笑顔で嫁いでいってしまうのだからな。

きっと喫煙者はこういう時に煙草の量が増えたりするのだろう。
……まあ吸った事が無いから分からないが。



143 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 04:57:05.21 ID:lbnm/+LS0

「そういう澪も意外と結婚近かったりしてな」

冗談顔で言う律。だが……

「止めてくれ」

マジ顔で拒否してしまう自分が居る。
とても結婚式で幸せの空気をお裾分けしてもらったばかりの人間とは自分でも思えないな。
……いや、出席したから尚更か。

「唯……幸せそうだったな」

「……ああ」

そこは否定しない。否定しないが……

「でも……すっごく疲れてたな。二次会も途中で寝ちゃったし」

あの倒れるように寝入ってしまった姿を見ると……どうもな……。

「披露宴の準備って大変らしいからな。
 花嫁の手紙読んで泣いたりする時も実は感極まってとかじゃ無くて
 式を挙げるまでの苦労の日々を思い浮かべて、
 それが終わって一安心した時に来る安堵の涙だったりすることもあるらしいし」

何だそれ?

「本末転倒じゃないか。
 高い金払って豪勢な式挙げて、準備で苦労した分勝手に泣いてって……そんなの何が良いんだよ」

律は優しく笑って返す。

「それでも挙げたいんだろ。
 ウエディングドレスなんてやっぱり女の子の憧れだろ? 実際唯もめちゃくちゃ綺麗だったしな」

まあそれは認めるにしても……だ。



144 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:02:29.76 ID:lbnm/+LS0

「やっぱり私には分からないな。結婚の良さも、結婚式の良さも」

「おやおや、結構楽しんでいるように見えましたが澪さん?」

「出席側としてはな。だけどいざ自分がと考えたら死んでも御免だ。
 今ならムギの持論に百二十パーセント同意できる」

「ああ……ここにも少子化を促進する若き乙女が一人……」

「何とでも言ってくれ」


三駅ほど過ぎてだろうか。
律は自身の会社のある最寄り駅へと向かう為に電車を降りた。
また一人になった私は白い吊革に掴まって寂しく家路を急ぐ。

まあ家に帰る前に寄るべき所もあるし別に急ぐ必要も無いのだが、
それでも私は一駅毎に降りては乗って来る
同じような顔をした企業戦士達と顔を合わせるのが嫌だったので、
妙にイライラして目的地までの到着を待つ事となった。

私もこの風景の一つになってしまっているのだろうか?
疲れた都会の一風景に溶け込んでしまう顔をしているのか?

そんな事を思った時、汚れた窓に映る自分の顔と目が合った。
……大丈夫。隈も出来ていないし、顔色も悪くない。
だが何だろう? 何かスッとしない。

「……バカバカしい」

そのとりとめの無いもやもやの正体に私が気付く事は無く、
吐き捨てるように息を一つ車内の虚空に残してその場を去った。
妙にイライラした年頃のOL。ヒールをツカツカと鳴らして人々の喧騒をBGMにホームを歩く
……何だよ、完璧に東京名物の夕暮れ風景じゃないか。
そんな事を思いつつ、私は電子パスを取り出す為に鞄の中へと手を伸ばしたのだった。



145 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:09:03.75 ID:lbnm/+LS0

「……大丈夫か?」

首肯で返事をするベッドの主。
だがどう見たってどう考えたって大丈夫では無い。やせ我慢ここに極まれり、だ

「……嘘つくなよ」

今度は首を横に振ってみせる彼女。
これで大丈夫なら世の人間は大抵の場合仕事や学校を休まなくて済む。

「電話……」

「ん? どうした?」

蚊の鳴くような声だ。細くて弱い、それこそ今にも消えてしまいそうな。

「出れなくて……すいません……」


現在午後六時ジャスト。
我が麗しの秋山宅から徒歩五分の場所にある平沢宅へ到着した私を出迎えたのは、
鍵も掛かっていない玄関の分厚いドアだった。
……そしてそれを不審に思いつつも勝手にお邪魔して最初に目に飛び込んで来た光景がコレ。

玄関に置きっぱなしのスーツケース、床に脱ぎ散らされた洋服、
そしてベッドの上で苦悶に声を喘がせる部屋の主。
暖房も入っていなければ照明も点いていないという何とも寒々しいこの部屋で彼女は一人、
このどうしようもない戦いに丸一日明け暮れていたというのだろうか。
……本当に風邪だなんて微塵も思わなかった自分をブッ飛ばしてやりたいな。

「気にするなよ。会社にちゃんと連絡入れてたんだからそれ以上は言わないさ」

そう言って照明のスイッチを入れ、彼女が横になっているベッドの枕元へと歩み寄る。
灯りに照らされたその火照り顔を見れば額も首もパジャマまでびっしょりじゃないか。
恐らく全身汗まみれなのだろう。



146 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:19:35.08 ID:lbnm/+LS0

「結構酷そうだな……」

そこで私は身を震わせた。そういえば暖房が着いていなかったんだっけな。
いくら何でも寒過ぎる。これでは治る物も治らない。

「暖房のスイッチは?」

布団の中から弱々しく這い出た指で差された先に目をやる。
それを目で追えば小さな本棚の上にブツが鎮座していた。
ほんの少し温度を高めに設定しても別に文句は言われないだろう。地球さん、ごめんなさい。

「ちょっと待っててな」

そう言って家中を漁り回り用意した物は看病用具一式と着替えだ。
パジャマの生地が変色するまで汗を掻けるとは逆にその治癒能力を讃えるべきなのかもしれないが、
いずれにせよ濡れたままでは治らない。それに汗も掻きっぱなしでは気持ち悪いだろう。

「憂ちゃん、着替えようか」

そう言って彼女の軽い体をベッドからゆっくり起こし、
パジャマを脱がせて濡れタオルの後に乾いたタオルで体を拭いて行く。
流石に下着の着替えは自分でやってもらったが、
それでも病気の相手を気遣いながらこういう作業をするのは結構骨が折れる物なのだと実感した。

本職の介護に比べてればこんなのウォーミングアップ程度にもならないのだろうが、
それでも生まれてこの方看病なんてしたことが無い私にとっては
明日の筋肉痛を呼び起こすのに十分な物に違いなかったのである。

「よし、寝ようか」

テレビでたまたま見ていた病人の体の扱い方を真似、
首に負担が掛からないようにゆっくりと手を入れて枕へと着地させる。
……明日は右腕が上がりそうにない。

「薬は……あるな。ご飯は……」

弱々しく横に振られる首。晩春の風に吹かれる摘み忘れの土筆のようだ。



149 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:25:42.11 ID:lbnm/+LS0

「……そりゃそうだよな」

もう一度顔の汗を乾いたタオルで拭い、よく冷えた冷却湿布を狭い額に張り付けて台所へと向かう。
流石に清潔感抜群だな。シンクに至っては問屋から卸したてのようにビカビカ輝いている。

「……欲しい」

なんて戯言はいいんだ。
どうせ「やる」と言われても持って帰れないしダブるし。
今は黙って卵のお粥でも……。ほれ、ガチャッとな。

「……ああ?」

どこかの江戸大工の頭領のようなべらんめぇ口調で開いた冷蔵庫の中へケチをつける私。
……だが、これではケチの二つや三つくらいつけたくもなるというものだ。

「何じゃこりゃ……」

ここまで呆気に取られたのは人生でそう何度も無いぞ。まさに不意打ち八兵衛だ。
冷蔵庫の中に入っていたのは酒、酒、酒、あとはつまみと思しき食材と調味料がほんの少し。
賞味期限間近の豆腐とパックのロースハム。あとは醤油&ケチャップ&マヨネーズ&焼き肉のタレ。

それ以外は全部酒。

安物発泡酒のロング缶、各種カクテルのロング缶、
トニックウォーターに日本酒のカップに未開封の白ワイン。

「ん? トニックウォーター?」

まさか……と思いつつ冷蔵庫と入れ替わりに開けた冷凍庫の中を見てまた愕然。
今度は敷き詰めるように並び置かれ、霜まで被った大量のジンの瓶が居座っていやがった。

その端の方にはほんの申し訳程度にロックアイスと冷凍のポテトが顔を覗かせている。これは……。

「おいおい……」

頭を掻きつつそのまま台所中を引っ掻き回す。
棚という棚、シンク下の収納スペース、開ける所は全て。

頼むから出てきてくれと懇願しながらの作業ではあったが、
結局その五分間は徒労と銘打たれてしまった。
出てきたものと言えばスルメ、乾き菓子、ブロックチョコ、やはりつまみの品々ばかり。



150 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:30:51.30 ID:lbnm/+LS0

「どうなってるんだよ……」

そう、この家には米一粒、卵一個、小麦粉一グラムすらも存在していなかったのだ。
それどころか今更ながらこのキッチンを見渡せば更なる違和感に気付く。
そう、あまりに綺麗過ぎるのだ。

いくら家事が上手な人間が万全の心構えを持って調理に臨んだとしても、
約九ヶ月も住んでいてこの清潔さと調理器具の無傷さを保っていられる事など百パーセント不可能だろう。

この清潔さは保たれた物では無い。最初に在った状態を保存しているに過ぎないのだ。私には分かる。
何故なら……これは私が今の家で一人暮らしを始め、まだ炊事をしていなかった時と同じ状態だからだ。

「憂ちゃん……」

キッチンからそっと顔を覗かせ、ベッドの上で息を荒げる彼女を見る。
今にも泣き出しそうな顔で只々苦悶するその姿に、ふと大学時代の自分が重なった。
友人も居らず、頼れる人間も居らず、只々苦しみ悶えた大学二年の冬のアパート。
薬を買いに行こうにも足腰が立たず、何かを胃に入れようにも吐き気がそれを拒み、
終わりの無い輪廻のような絶望感に打ちひしがれたあの時の思い出が脳裏を過る。

……きっと昨夜も苦しかったんだろうな。だったら……一刻も早く楽にしてあげなくてはなるまい。

「憂ちゃん、ちょと待っててな。家に帰ってお粥作って来てあげるから」

その言葉が聞えたかどうかは分からない。
返事も首肯も無かったしな。
まあ意識が朦朧としているかもしれないし、首を振る気力が無いだけかもしれない。

私はそんな彼女を一人残し、冷蔵庫の中にあった豆腐を掻っ攫って自宅へと踵を返した。
体に良いと聞くし、絹ごしなので細かく切れば喉越しもよくなるだろう。
明日までに食べきらなければゴミ箱行きというなら絶対に食べた方がいい。

そんな浅はかかつ真理的な理由でお粥の具となる事を決められた
絹ごし豆腐を片手に、私はコンクリートの階段を駆け降りる。

……何だか憂ちゃん関連だとヒールで走らされることがデフォになりそうで怖いな。
そんな事を思いつつ、私はやはり踵を折る覚悟でアスファルトを蹴り、
自宅までの短い道のりを走り出すのだった。



151 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:36:02.36 ID:lbnm/+LS0

「えっ?」

白衣の男性の口から発せられたその言葉は、割とあっけらかんと考えていた私の胸を徐に串刺しにした。

「詳しく検査してみないと分からないけど、
 恐らく過労とストレスが原因だね。後は偏った食生活と過度の飲酒。」

入院。先の私の小さな呟きの前に告げられた泊まり込み前提の治療。
点滴打ってもらって、適当な物食べて、薬飲んで寝とけば
それでOKだろうだなんて考えていた私にはやはり驚嘆の一言でしか無かった。


今更ながらではあるのだがここは病院だ。
都内でも大きい方に入る総合病院で、
ここいら地域一帯の医療を全て担っている言わば近隣住民の保健室的存在なのである。

私は社会人になるに当たって西東京の学園都市から
この東東京のベッドタウンに越してきて以来ずっとこの病院に世話になっている。

医者も看護士もそれなりに人の良い人間が多い感じで、
「入院する際は是非当院で!」と何度か不吉なお誘いを受けた事もある。

まあこの人生中は周囲の人間も含め入院などという言葉とはてんで無縁に歩んで来ていた為、
その時は笑って「考えておきます」とやり過ごしたのだが、
まさかこんなに突然その機会が訪れる事になろうとは思いもしなかった。

実際に入院するのは私では無いのだが身内も同然の人間が
数日間この病院に缶詰にされようとしてるのだ。流石に動揺を覚えない訳が無い。

そもそも憂ちゃんをここに連れてきたのは薬を飲んでも高熱が治まらなかった為、
点滴でも打ってもらおうという軽い気持ちでの事だったのだ。
朝一の開診時間に合わせてタクシーで乗り付け、
まあ仕事には少し遅れるくらいの気持ちで居たのだが……。

「えっと、ご家族の方は?」

「ああ……この娘一人暮しなんです。何か問題がありますか?」

「いや、問題という程の事では無いんだけどね」

中肉中背初老の白髪医師は腹を掻きながら続ける。



152 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:41:32.63 ID:lbnm/+LS0

「着替えとか身の周りの物を持って来てあげて欲しいんだよね。
 平沢さん……だったよね。平沢さんはこのまま入院できるように用意出来るんだけど、
 病院の者が家まで上がり込んで着替えを取ってくる訳にもいかないしねぇ」

それもそうだ。昔の田舎ならいざ知らず、
現代の東京でそれをやる医者が居たら間違いなく地域誌朝刊の三面記事くらいにはなる。

「じゃあ私が取って来ます」

「そうしてくれるとありがたいよ。ああ、彼女の保険証は受付に預けてくれているかな?」

「はい。間違い無く」

「よし、じゃあ書類なんかは取り敢えず後回しにしよう。
 すぐにでも着替えなんかを取って来てあげるといい。ああ、何なら仕事の後でもいいんだけど……」

「それは……」

ダメだ。今日は得意先との飲み会が入っている。
とても一回病院に寄っている暇は無い。あそこの部長は気難しくて嫌いだ。

「いえ、都合があるのですぐに持って来ます」

「分かった。戻ってきたら受付で部屋番号聞いてね。
 あとご家族の方には一度病院まで電話するよう言ってちょうだいな」

「分かりました。どうもありがとうございます」

「ん、付き添い御苦労様。お気を付けてね」

にっこり微笑む老人医師に頭を下げ、私は急ぎ足で病院の廊下へ飛び出した。
やる事がとにかく山積している。
会社への報告、一日のスケジュールの組み直し、時間の調整。
微々たるものから人の段取りを着けなければならない物まで様々だ。

……それにしても今週いっぱい憂ちゃんが居なくなると考えただけで本当に頭が痛い。
彼女が居ないということはつまり書類のタイピング担当が居なくなるという事で、
それはつまり作業全体がそこで滞ってしまい遅々として進まなくなるという事を意味しているのだ。

我が班……というよりは私の彼女への依存度は本当に高いのだな……と改めて実感させられてしまう。
そんな事を頭を掻きながら考えている内に気付けば建物の外に出ていた。



153 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:46:38.93 ID:lbnm/+LS0

医療機器に障害が出るからと電源を切らされていた携帯電話をさっと開き、
赤い表記の電源ボタンを押し込みながら列を成して客待ちをしているタクシーへと乗り込む。

「二丁目のスーパーの前までお願いします」

「最近出来た方ですか?」

「はい、お願いします」

「承知しました。ワンメーターで着かせます」

頼もしい限りの言葉だ。なら私も硬貨は二枚以上出さないぞ。

「発車します」

その言葉の二秒後、サイドブレーキを解かれた白のタクシーは長い長い坂を下り始めた。
携帯が立ち上がり、電話帳から本社営業課長のデスク直通の番号を拾い上げたのは
それから間もなくの事だった。



昼休みの給湯室。
後輩から売ってもらったあんパンを一気に頬張ってお茶で流し込んだ私は、
備え付けの小さな冷蔵庫を背凭れにして地元の友人へと急ぎの電波を飛ばしていた。
午後一番の会議の用意があるのであまり時間は取れない。

ちなみに電波を飛ばしている先は
もちろん先週末に式を上げたばかりのフレッシュ新妻、唯の携帯である。

『お掛けになった―――』

ワンコールも鳴らずに受話スピーカーから流れてきたその女性の声に心の中で舌打ちをし、
すぐさま電源ボタンを押し込んで電波を遮断する。
まあ正直半分こうなるとは思っていた。今はどう考えたって仕事中のはずだ。
パティシエの業務内容までは知らないが、恐らくホールケーキでも焼いているのではないだろうか?

「店は……っと」

英語で掲げられた店名を何とか思い出し、
さっと電話帳のその文字にカーソルを合わせて通話ボタンを押す。
無機質な呼び出し音を鼓膜がキャッチしていると今度は先程とは逆にワンコールで通話が開始された。



154 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:51:48.56 ID:lbnm/+LS0

『お電話ありがとうござ』

「唯、私」

接客基本用語の至極常套的な出だしをさっと遮り、私は何の躊躇いも無く彼女との会話を切り出した。
まさか結婚式の二次会で散々くだを巻いた相手の声を忘れてはいまい。
これで和と勘違いでもされれば些かショックだな。

『あっ、澪ちゃん! この前はありがとうね~。今夜にでも電話しようと思ってたんだ~』

いつもながらほんわかふんわかほんわかほい♪なのはいいのだが、
今はそれどころでは無い。あと五分後には資料を会議室の机に並べ終えておかなければならないのだ。
社長も欠かさず出席する月一の営業全体会議。最終チェックの手が抜ける程甘っちょろい物ではない。

「唯、世間話で電話したんじゃないんだ。今から言う事落ち着いて聞いてな」

受話スピーカーの向こうから
『ん?』と不思議そうに喉を鳴らすような声がした。大方首でも傾げているのだろう。

「憂ちゃんが入院したんだ」

息を一つ挟んで言ったその言葉には別に何の含みも持たせていない。只々有りのままを述べたまでだ。

『……え?』

その声の裏でカツン、と本当に小さな音がした。
恐らく手に持っていたボールペンでも落としたのだろう。

「そんなに大袈裟な病気じゃないんだ。普段の食生活とかが乱れてて体力が落ちてたみたいでな、
 一昨日こっちに帰って来てから体調崩してずっと寝込んでたみたいなんだよ。
 多分移動で一気に疲れが出たんだろうな」

その間スピーカーからはノイズ以外何も聞こえなかった。息遣いすら感じ取れやしない。



155 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 05:56:58.77 ID:lbnm/+LS0


「昨日仕事休んだから私が看病に行って、今朝病院に連れて行ったらそのまま入院。
 殆ど検査みたいなもんだけど、ついでにゆっくりさせた方がいいってお医者さんに勧められてな。
 悪化でもしたら流石に責任取れないからじゃあ……って事でお願いしたんだ」

出来るだけ簡潔に経緯を伝える。もちろんチラチラと壁掛け時計に目をやるのも忘れない。

「で、唯。やってもらいたい事があるんだ」

『え……あ…………』

どうやらお姉さまは言葉が出て来ないようだ。
まあ突如妹が入院しただなんて告げられてもこうなるのが関の山なのだろうな。そこは素直に賛同しよう

「唯、床に落としたペン拾ってメモの用意」

だが生憎だがその妹が入院したおかげでこちらの仕事量はマシマシなのだ。まさしくチョモランマ状態。
別に憂ちゃんのせいではないし、上司同僚として欠員のカバーをするのは当然の事なのだが、
生憎それを処理するのに掛かる時間という永世万理的中立物とだけは
激しく折り合いがついていないないのだ。

つまり決った時間で普段以上の仕事をこなさなければならず、
尚且つ今日は六時からの楽しくも無いアルコール摂取が義務付けられている。
悪いが唯の心情を察する事は出来ても、それに心から同情している暇など今は一秒だってない。
……無いんだ。

「早く」

『あ……う、うん』

衣服が擦れる音がする。屈んでペンを取ったのだろう。

「今から言う番号に電話して欲しい。病院の番号だ。
 一応家族にも説明しておかないといけないからって言われたからな。
 ……メモの用意出来てるよな? 言うぞ?」

『いいよ。言って』

微かに震えて感じたその声での返答を受け、
私は手に握った診察券を見ながら九桁の電話番号を集音マイクに向かって告げた。
それを二回繰り返し、唯にも復唱させる。



156 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 06:02:07.22 ID:lbnm/+LS0

「じゃあ早めに連絡入れてくれよな。私も出来るだけ多く病院に行って面倒看るからさ」

そこでもう一度時計をチラリ。
もうそろそろ限界だ。いい加減給湯室なんかに籠っていていい時間では無い。

「私、そろそろ仕事に戻らないといけないから切るな」

『う……うん、分かったよ澪ちゃん。ありがとね。憂にお大事にって……』

「ああ、言っとくよ。じゃあな」

『うん、バイバイ』

最後の言葉を聞き届け、唯がまだ耳に受話器を当てているかと思いつつも、
私は手早く電源ボタンを押し込んで電話会社を中間に挟んだ電波の飛ばし合いを終了させた。
これで一応の義務は果たした事になる。次は私自身の務めを果たさなければならない。
新人が初めて上げた定期報告書にタイプミスが無い事を祈り、私は給湯室を後に……

「おお秋山さん」

突然掛けられたその声の主が誰かと聞かれれば
それは十中八九間違いなく正解が出せる相手なのだが、目を上げればやはり課長だった。

つい昨年末までは出世街道まっしぐらのエリートコースをひた走っていた女課長なのだが、
年明け一発目の突如の結婚宣言と共に来月いっぱいでこの会社を去る事が決定している。
この会社に入って研修時代からずっとお世話になっている身としてはやはり寂しいものだ。

本来なら満面の意味で祝ってあげなければならないはずなのに、
左手のシルバーリングが些か疎ましく感じてしまう自分の性格が……少し憂鬱だ。

「早くゴートゥー会議室! 仕切る人が居ないと士気も上がんないよ~?」

笑顔で私の肩をバシバシ叩いて来るこの些細なやり取りが、あと何度味わえるだろうか。
……考えただけで寂寞の想いが胸を占める。

「はい、すぐ行きます」

「あ、ひょっとして平沢さんのご家族に?」

グーから親指と小指を広げ、受話機を模して見せる課長。
……言えない。そのリアクションから昭和の香りがプンプンするだなんて口が裂けても言えない……。



157 名前:◆TTt1P6HN1I :2010/07/14(水) 06:12:35.57 ID:lbnm/+LS0

「は、はい。連絡も着いたんで一安心です。後は平沢さんの分の仕事の分担を決めるくらいですかね」

「む、よろしい」

私も流石に職場で憂ちゃんだなんて言っている訳ではない。
向こうも私を秋山先輩だ。もうすぐ先輩の代わりに主任が付く。

「今日はリーダーが接待もあるし、秋山班はバッタバタだね」

「はい、でもそれは仕方ないです。まさか入院までさせられるなんて思いもしませんでした」

「平沢さん顔色良かったもんねぇ? 私も健康管理はバッチリと思ってたんだけどなぁ……」

そう言って課長は私の横をすり抜け給湯室に入り、冷蔵庫から箱入りの栄養ドリンクを取り出した。

「それ……確かすっごい高い奴ですよね? コンビニなんかじゃ売ってない」

クイッと腰に手を当て、課長はカッコよく一言。

「安物は……アタイの身体に染み込まないのさ」

敵を切って捨てた用心棒が骸に向かって語りかけるようなその口調。
要は安物を飲み過ぎて効かなくなったという事でいいのだろうか?

風情漂う給湯室での栄養補給。
気つけ薬のような匂いがこちらまで漂って来るような瓶の中身を、課長は一気に口へと流す。

「プハー! まっずい!」

そんな良薬を口に流す機会などもう数える程も無いのだろうな。
再来月にはもうこの御姿が拝めなくなる。
早かれ遅かれいずれは来ると思っていた別れの足音がゆっくりと近付いてきているのだ。

「やっぱ高いのは違うねぇ! 胃の底から熱を感じるよ!」

まあ……精々その薬を苦く感じてくれている事を祈ろう。
財布から出した金に見合うだけの働きをどうかこの人に。今日の会議は……長い。


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